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過去世の扱い方
ある日インスタグラムでイギリスの画像を見ていたら、とてもよく知ってる場所が出てきてハッとした。
懐かしさに驚いたものの、初めて見る場所だった。
テレビやネットでも見たことない場所なのに、まるで幼少期によく遊んでいた公園を見たような気持ちになったのだ。
その場所の名称を見て、心の奥がぎくりとした。
Druid’s temple ドルイドの墓。
私は子供の頃から好きなものがはっきりしていて、お小遣いでハーブを買って育てたり、おまじないや妖精は存在するものとして生きていた。
鬼ごっこに夢中で大切なバッジをなくしてしまった時には、そこに落ちていた竹を使いバッジの在り処を占って当てたことがある。
お気に入りのキーホルダーが盗まれた時にも、残留思念を読んで盗んだ子を探り当てた。
どちらの時も誰に教えられたわけでもなく、占い方や力の使い方を知っていた。おまじないや妖精も親に植え付けられた感性ではない。
二十歳の頃に初めてケルト文化を知った時、そこには子供の頃から惹かれていたものが詰まっていて驚いた。突然現れた、すべての共通点だった。
Druid's templeの写真に心がぎくりとしてから、ドルイドについて調べてみた。
ドルイドはケルト文化にいた祭司のことである。
ドルイドたちは自然を崇拝し、霊魂不滅や輪廻転生を教義とし、宗教指導や魔術、占いなどを行ったと書いてあった。
正直、それは今の自分の生き方にとても近いと感じた。
子供の頃からいつも通学路にある様々な植物と交流していた私は、ある日そこにあったはずの木が切り倒されていたりすると本当に寂しくなった。
不思議だったことのひとつに、樫の木のことがある。
他の植物とは違い「樫の木」と聞くと心がざわざわと揺さぶられるのだ。英語でOak(オーク)と聞いても同じようになるのは、やっぱり言葉ってエネルギーだからかもしれない。
ドルイド教はオークを聖樹として崇拝していたため、オークはいつでもドルイドたちの生活の中心にあった。
ドルイドの教義は文字で残さず口伝伝承を行っていたため、未だ謎に包まれている部分がある。ドルイドについての文献の大元は、ドルイドではない外部の人たちが書き残したものだからおそらく解釈が違うことも多い。
「ドルイドは人身御供の儀式などを行ったり、残虐な側面があった」とよく書かれているのだが、それは彼らの掲げていた「霊魂不滅」の感覚にあまりにも寄り添っていない解釈だと感じてしまう。
おそらくその頃の地球はどこも殺伐とした世界だったから、野蛮だったのはドルイドに限ったことではないだろう、とも思う。
人身御供の儀式は、彼らは問題解決や魂の大いなる成長のために「あちら側に移動してサポートする」もしくは「あちら側で研修してくる」ために行っていたのではないかと感じる。
抜け出した霊魂が迷うことのないように、その旅を安全に進めるために使われていたのがオークだったのではないか。
彼らはオークに寄生したヤドリギを特別なものとし、粉にして飲んでいた。
以下はドルイドのwikipediaから抜粋したものだ。
【イギリスで発見された湿地遺体であるリンドウ・マンは、人身御供の犠牲者であるとする見方がある。「彼」は健康状態がよく、爪が整っており高い身分の人間だったと推測されている。リンドウ・マンの腸にはヤドリギの花粉が残されており[25]、これはプリニウスが記したヤドリギを珍重し薬として用いるドルイド像を連想させる。】
健康状態がよく、爪まで整えられた身分の高い人が本当に「人身御供の犠牲者」なのだろうか。爪が整えられているということは、服装も上質なものを身に纏っていたのではなかろうか。
「人身御供の犠牲者」を、「崇高な多次元へ旅立つ人」に置き換えると、すべてがしっくりくるように感じる。
ちなみに今回の絵は、父の臨終の際のエネルギーを4年後に描いたものだ。
これを描いた時はドルイドのことはまだ知らなかったのだが、旅立つ父の肉体を「木」の姿で描いたこと、「木」を通って魂が旅立つと表現したことは、ただの偶然だろうか?
自分も過去世でドルイドだったのかもしれない。
そのピースをはめ込むと、子供の頃からいつもそこにあった謎がひとつ解ける気がした。
去年の秋頃、庭の木々が鬱蒼としていた日陰にDruid’s templeと同じ波動を見つけた。
懐かしい波動をしばらく味わってから、私は枝をどんどん切り落としていった。
鬱蒼としていた木を短く切り整えると、日陰だった場所にたくさんの光が差し込んだ。
Druid’s templeと似た波動はもう庭にはない。
これでいいのだ、と思った。なぜなら私は今の私としてやるべきことがあるからだ。
過去世は面白い世界だ。過去世からの影響を受けている人もセッションの中でたくさん見てきた。
だけど過去世と同じくらい、今世生まれてから学んできたことに大きな意味がある。それを学ぶためにわざわざ遥か遠くの時空から転生したのかもしれない。
今世だって、いつかの過去世であり未来世なのだ。
私たちは、今を生きるためにここにいる。