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「枯れ葉」はどこへ

映画/アキ・カウリスマキの帰還


北九州空港への搭乗便チェックインまで時間があった。
春の花々が咲き始める頃である。
キネカ大森で観てから4ヶ月も経ってしまった。
あと三月も過ぎればそんな季節が巡ってくるって、いやはや何とも間が抜けている。

昨年のアキ・カウリスマキ監督復帰は、相変わらない作品レベルの高さで注目を浴びたようです。それが見逃し人の自分の隙間時間にはまりました。名画座ってありがたい。
同監督の熱烈な支持者にとって、ドタバタうるさい映画がもてはやされる昨今、新作は思わぬ恵みだったでしょう。引退宣言していたらしいから。

かく云う己のカウリスマキ体験は、はずかしながら 過去のない男(2002) だけなのです。気になる監督として鑑賞心に刻まれていましたが、その前後の日本公開作品を観る機会を逸してきたので、おそらく見渡しのきかない極狭な感想になってしまうやなもし。

映画館へ行けば基本データを再確認するため、チラシを持って帰るのですが、すでにはけてしまったらしい。やむを得ず普段は余分な情報を仕入れないようにと避けているパンフレットを購入。(見るとけっこう良い造りだったのもあるかやなし)

枯れ葉
(アキ・カウリスマキ監督/2023) 

900円てどうなのか?
コスパ上々という気がしたけれど。


すれ違いの繰り返しに長い時間をかけ、観客を焦らすのがメロドラマのお決まりでありましょう。
枯れ葉 はメロドラマの体でありながら、心の糸を繋ごうとする男女の生きようを、短いスパンのうちに、飾ることなく見事に撮りきった小品ですなん。


北欧の国は富の分配度が広く、セーフティネットもしっかりしているとの安直なイメージを持っていましたが、描かれた社会背景は違った。フィンランドだけが底辺が深いのでしょうか? ところが web で見ると、2022年の国連による世界幸福度報告書で第1位、それも5年連続 !って、いやはや何とも、、、
職を失えばその日の食事に困るような階層(?)生活者の日常エピソードが流れるように描かれる。(成瀬巳喜男監督の下町物が頭をよぎりました)


Emily (Bill  Evans  Trio/1969)
(Live in Helsinki/song by J.Mandel)

(youtube)


カラオケバーで冴えない中年男女が偶然に居合わせ、互いを意識するものの直ぐに交流は起こらない。恋愛感情を抑えているのは、ポジティブに相手に向かえない生活情況にもあるだろうかな。

パンフレットより


再び偶然のシチュエーションで出会った二人。なんとか映画を見に行くまでになるのだが、女は男に名前を言わずに別れる。次に会う時に教えると、電話番号だけを渡して。

パンフレットより


お互い惹かれるものを感じているようだが、男の信頼度を試しているのか、過去に痛い目にあったトラウマがあるのかもしれない。それとも運命論者なのか。
そこそこラブコメ要素が入ってはいるけれど、ヘルシンキの薄暗く沈んだ空の下で、うまく世渡りできてこなかった男女の気質(?)ではイージーゴーイングとはならないだろう。そのへんの感性の在りどころがハリウッド物とは異なるところか。

パンフレットより


男女とも安定した職はなく、もちろん裕福でもない。若さはとうに失われたうえ、家族もない。ないない尽くしから何が生まれるのか。ただ寄り添いたい相手を求める心は伝わってくる。

パンフレットより

この作品は不倫や三角関係、家族の確執などの要素を絡ませないことで、それぞれの孤独をいっそう際立たせる反面、二人をさもしさを感じさせない存在としている。

経済的に恵まれないブルーカラーが、ささやかな幸福感に収れんしていく映画を久しく観ていなかった気がした。しかもその背後に社会生活での生きづらさや、二人の時に投げやりになってしまう心情へまで、監督の共感の眼差しが届いている。(こんな所に成瀬テイストを感じるやな。パンフレットの冒頭メッセージでカウリスマキは、リスペクトする先人として小津安二郎を上げているけれど、、、)

ロシアのウクライナへの軍事侵攻のニュースがいつもラジオから流れてくる。アンサ (アルマ・ポウスティ)はいたたまれない様子で聞く。

パンフレットより


ロシア帝政に併合されていた苦難の歴史があるフィンランド。ロシアとの国境線は1340キロとのこと、ヨーロッパでは最長やもしれん。
現在が舞台だが社会風俗描写は20年以上前に視える。それは帝政ロシアの復活を謀るプーチンが大統領となった時期である。リアルな世界とフィクションの混在感を覚えるが、、、
おそらくフィンランド人にとって、ロシア(プーチン)帝国の領土拡張主義が21世紀に再来することを、200年以上前に遡る記憶のなかで、うっすらと感覚させられてきたのかもしれない。
カウリスマキは20年前のように映る日常から現実の侵略戦争を見透すシーンを入れたのだろう。フィクションの中だからこそ可能なリアリティ。

You'd Be So Nice To Come Home To (1954)
(vo./Helen Merrill, tp./Clifford Brown)
(song by Cole Porter)

(youtube) 

なんやかやあって、アンサはホラッパ (ユッシ・ヴァタネン)を家での食事に招く気持ちになった。食卓は上々だったが、彼の隠れ酒を引き金に、アルコール依存についての諍いの末、男は帰ってしまう。

パンフレットより


しかしアンサへの断ちがたい思いがホラッパに酒を断たせた。まだ糸は繋がっているのか、意を決してアンサへ電話する。家へ来てという思わぬ反応にあわてて飛び出した結果、路面電車にはねられてしまう。恋は盲目 (視界からトラムが消えていた) 、嫌な予感がただようシーンだが、、、
すれ違いを重ね、会えたら最後、片方の死になりがちなのもメロドラマのお決まりらしいが、作品は大怪我の癒えた彼と彼女が、枯れ葉の舞う中を歩き出していくラストシーンへ。

枯れ葉は落ちて吹き飛ばされ雨にうたれ、気づかぬうちに視界から消えるだろう。その行方は、私たちの土地が健全であれば、自然の摂理にしたがって吸収され、樹木は新しい葉を育むだろう。そんな何気なさに愛を感じたい世界に私たちの現在がある。
強欲から遥かに遠い人たちの、トラブルにみまわれながらも日常を生きていこうとする姿勢に、カウリスマキの人間観が表われているやな。
成瀬巳喜男がフィンランド人だったら、こんな映画を撮っただろうと妄想させられた。

Autumn Leaves (1958)
(as./Cannonball Adderley, tp./Miles Davis)
(song by J.Mercer, J.Prévert, J.Kosma)

(youtube)



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