![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/169300986/rectangle_large_type_2_1c4fd3db1e825754f3eb78fe4cb83676.png?width=1200)
友達100人できるかな
童謡で「一年生になったら」という曲があるのですが、その歌詞に「一年生になったら 友達100人できるかな」という一節があります。
その歌詞の部分が大人になった今でも引っかかっているのですが、幼少期は友達いっぱいできればいいな程度に思い、青年期はそんなにいっぱいは友達ができない自分は非リア充と蔑み(そこまで考えてはいなかったですが)、30・40代になった今は10人程度いればお腹いっぱいというような思考になりました。
前に、僕の数少ない友達の1人が「自分が友達だと認識している人が、自分のことを友達だと認識してないかもしれないから友達だと言えない」ということを悩んでいました。
僕は、あまりそういうこと(友達の人数が多いか少ないか)を気にしない人間なので、そんな事で悩んでいるのかと驚いたのですが、どこまでが友達や知り合いなどと認識できているのかということは、多少なり考えてしまうことはありました。
ネットの記事で、「ダンバー数」という霊長類学者のロビン・ダンバーが提唱した「人間が安定した社会関係を維持できる人数の上限がおよそ150~200人程度だ」という仮説について書かれた記事が面白かったのですが、このダンバー数が「一年生になったら」の歌詞の内容と関係しているのではないかと思いました。
この仮説からすると、150〜200人は認識できるとされているのですが、親密度ごとで考えるとまた認識が違ってくるみたいです。
親密に連絡を取り合うのは5人程度(家族・親友クラス)、少し距離があるが深い関係を継続できるのは15人程度、なんとか顔を覚え、時々連絡をとるのは50人程度、名前と顔が一致し、ある程度の情報を共有できるのは150人程度、その先の500人・1500人という段階には「知人」「名前だけ知っている」などの薄い層が続く……といった具合に、脳の処理能力によってレベル別にグループが区切られている、と言われます。
これだと、実質友達だと認識できるのは20人程度ではないかと僕は思います。
時々連絡を取る程度の人を入れても、70人程で100人には届かないのではないかと思いました。
流石に、名前と顔が一致し、ある程度の情報を共有できる人はもう友達ではなく知り合い、もしくは知っている他人ではないでしょうか。
結局100人友達を作るには、極薄の関係であっても友達だと脳で認識し、そう言い切れるくらいの度量もしくは聖域に入らないと無理ではないのかと思いました。
あと、1人の人間が150〜200人しか認識できないというと、それ以外の認識されていない人間は、その人の世界には存在しないことになってしまうのではないかとも思いました(極論ですが)
前に、「100分de名著」というNHKの番組が出している書籍のテーマで「ナショナリズム」がテーマになっていた回があって、気になり買って読んだのですが、その内容が思いの外とても面白かったです。
中でも面白かった内容が、ナショナリズムの起源がいつなのかについて書かれていた事です。
ナショナリズム(国家・民族主義)というと大昔からあるものだと僕は何となく思っていたのですが、そこに書かれていた事は割と近代的な事だと書かれていました。
うる覚え(手元に本がないので)なのですが、大昔にもナショナリズムという概念は存在していたのですが、今のように国家規模でのナショナリズムは存在しなかったようです。
昔は、大体統治者が住む場所の周りに町があり(城下町といったらいいのか)、その城下町からどんどん距離が離れていくにつれて統治が及ばなくなるような状態だったようです。
ならなぜ現在は、こんな国家規模で大勢の人間を統治できるようになったのか。
それが、小説が出てきたからだそうです。
小説で同じ時系列で別々の人が活動している様子を描いた事により(「その頃◯◯は…」のような表現)、自分自身が認識していない見えていない人々がちゃんと同時刻に存在していることを、多くの人が知覚できるようになったみたいです。
それを知った時、わりと衝撃的でした。
そう考えると、存在しているともわからない人を存在していると思い込める能力が人間にはあるから、認識できなくても認識していると思い込めるのかもしれないですね。
何かどんどんカオスな状態になってきてしまったので、この辺で終わりにします。
友達100人作りたければ、童謡「手のひらを太陽に」の歌詞のように生きればいいのではと思います(ぼくの血潮ってすごい表現ですね…)
知識や知性、さらに才気までをもつねに凌駕する見事なもの、それは無理解だ