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「壬生義士伝」の握り飯 ******* 勝手にご飯映画祭⑤

大和川  長治

 はい、またお会いしましたねー。皆さん、映画はお好きですか?  邦画が好き、洋画が好きなんて好みはあっても、映画が嫌いだという人は少ないでしょう。

 ところで、SF、ラブストーリー、ホラー、時代劇…いろんなジャンルがありますが、ジャンルにかかわらず多くの映画に登場するシーンがあります。それは食事シーンです。なぜ多くの映画に食事シーンが登場するのかといえば、映画は「人」を描くもので、そのためには食事に触れない訳にはいかないからです。作品によって重要度はさまざまですが多くの作品で、そこに登場する料理にはその料理でなければならない理由があります。しかし、たいていの映画では時間の都合でその理由にはあまり触れません。

 そこで、登場する料理に注目して映画を紹介するのが「勝手にごはん映画祭」なんですよ。今月は日本映画「壬生義士伝」の握り飯を妄想します。


壬生義士伝

 明治三十二年、冬の東京市。満州への引っ越しを翌日に控えた大野医院に病気の孫を連れてやってきた老人・斎藤一は、そこでかつて新選組で一緒に戦った吉村貫一郎の写真を見つける…。

 南部藩(現、岩手県北上市から青森県下北半島)・盛岡に住む吉村貫一郎は、足軽身分の下級武士でありながら文武両道に秀でた人格者だった。しかし、長く続く飢饉で、身重の愛妻しづと長男嘉一郎、長女みつは貧困に喘ぐ。口減らしのために自ら入水したしづを助けた貫一郎は、家族のために脱藩を決意する。 
  
 南部藩を捨て、京で新選組に入隊した貫一郎は事あるごとに金を無心するので「守銭奴」「田舎侍」と笑われ、蔑まれるが、稼いだ金をせっせと盛岡の家族に送り続ける。斎藤はそんな貫一郎が大嫌いだったが、最後にはその生き方を認めざるを得なくなる。

 「斬ってくれる奴がいないから生きている」という斎藤と、「死にたくないから人を斬る」という貫一郎が人斬りに明け暮れているうちに、新選組は旗本(将軍家直属の家臣)に取り立てられ、京都の治安維持を任される。幕府の一員となったことで新選組は絶頂を迎えたが、大政奉還で一転して賊軍となってしまう。

    護るものがなくなり、行き場を失った新選組は幕府軍に合流して官軍に挑むが壊滅状態に陥る。賊軍と呼ばれ戦意を喪失する幕府軍の中で、貫一郎は脱藩で失った義を取り戻すために、たったひとりで官軍に立ち向かう。

盛岡市

 武士道において「義」は最も大切な道徳です。その意味は人としての正しい道、つまり「正義」です。武士は武器を持って戦うのが仕事ですが、人を殺すことができるからといって手当たり次第に斬りつけるようでは正気ではありません。人を殺すことができる武器と技術を持ち合わせているからこそ、己で己を戒める厳しい「義」を課したのです。

盛岡市

 「勇」も武士道の道徳のひとつで、義を成し遂げるための強い力のことです。新渡戸稲造は著書『武士道』で「義は武士の掟中最も厳格なる教訓であるが、勇の精神がなければたやすく卑怯者の巣と化す」と説いています。一方、「勇は義のために行われるのでなければ徳の中に数えられるに値しない」とも述べています。つまり、「義」と「勇」は表裏一体でなければ成り立たないのです。   

盛岡市 高松公園

握り飯の理由わけ

 官軍にたった一人で立ち向かい、満身創痍となった貫一郎は、幼なじみの大野次郎右衛門が差配役を務める南部藩大阪蔵屋敷にたどり着きました。落ち武者を匿うと藩が取り潰しにもなりかねない状況の中、次郎右衛門は厳しく叱責しながらも貫一郎を匿いました。官軍に殺されるよりも南部武士として誇り高く切腹させてやろうとしたのです。

 ボロボロになった貫一郎と鉄屑のように曲がった刀を見て、次郎右衛門は自分の刀を切腹用に与え、握り飯を自らこしらえます。

    この時代、握り飯とはいえ、武士が料理をすることなどなかったので、次郎右衛門は子どもが泥団子を作るように握ります。次郎右衛門が握ったものと下男の佐助が握ったもの、計二つのおにぎりが貫一郎のもとに運ばれました。握り飯を手渡された貫一郎はゆっくりと香りを吸い込み、南部の米だと言って微笑みます。

 しばらく後、次郎右衛門と倅の千秋、下男の佐助が部屋を開けてみると貫一郎は鉄屑のように曲がった刀で腹を斬り、握り飯も食べずに亡くなっていました。次郎右衛門にもらった刀は息子の嘉一郎に、握り飯は家族全員のために残したのです。

 貫一郎の亡骸に握り飯を食べさせようとする次郎右衛門が言います。「食え、南部の米だ、北上川の水で育った盛岡の米だ」「おめえのおかげで、しづも子どもたちも腹いっぱいだ。だから今度はおめえが食え」

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