見出し画像

マグロはなぜ「マグロ」になったのか? その名前には理由があります ③

 

 日本人の魚離れは年々拍車がかかっています。農水省の食料需給表によると、魚介類の消費量は2001年の40.2kg(1年間・1人当たり)がピークで、2019年には20kgと、右肩下がりです。しかし、色んな人に聞いてみると「魚は好き」「よく食べる」という人が以外に多いのです。

    ところがその実体は、好きな魚は「サーモン」と「マグロ」だけ。食べ方は「寿司」オンリーでした。それを裏付けるように、農水省の統計調査でも消費量1位は鮭、2位マグロ、3位ブリです。ちなみに、1965年のデータでは1位アジ、2位イカ、3位サバでした。

サバ科のシビ

 マグロはサバ科の魚で、サバ科には他にサバ、カツオ、サワラなどがいます。これらサバ科の魚は縄文時代の貝塚から骨が見つかっており、昔から日本人が大好きな魚だったことが分っています。

    しかし、マグロは昔からマグロだったわけではありません。マグロと呼ばれるようになったのは江戸時代の後期です。それまでは全国的にクロマグロをシビ、ビンナガマグロをトンボシビ、そしてその他のマグロも含めて、総称として「シビ」と呼んでいました。今でもマグロを「シビ」とよぶ地域があります。

宍魚しびと「しし」

 シビは漢字で宍魚しびと書きます。この「宍」は一文字で「しし」と読みます。これは食べるための動物の肉という意味です。

   日本では古来よりししの他に獅子・帥子・獣・猪・鹿・肉をすべて「しし」と読んでいました。

獅子しし帥子しし

 獅子ししはライオンです。もちろん日本にはライオンはいなかったのですが、インドにはライオンが生息しており、それがシルクロードを伝わって中国に持ち込まれています。

    東南・東アジア各国で見られる獅子舞の原点は、ライオンを基にした想像上の幻獣「帥子しし」をモチーフにした、インドの仮面舞踏です。この「帥子しし」が琉球に伝わりシーサーになりました。
✳️現在は「帥子」という漢字はあまり使われておらず、「獅子」で代用するのが一般的です。

しししし

 しし(食用動物の肉)から転じて、「肉」そのものを「しし」と言うようになり、「しし」を持つ「獣」も「しし」と呼ぶようになります。ただし、獣は「しし」の他に「けもの」という読み方もあります。

 これは、日本書紀に「獣」は毛物けもの=野生動物、「蓄」は毛駄物けだもの=飼育されている動物と定義されているためです。※現在は「けもの」は畜産動物、「けだもの」は野生動物と考えられていますが、これは江戸時代に庶民の間で反転して伝えられたからです。

しし鹿しし

 古代の日本では猪を「い」、鹿を「か」と呼んでいました。また、古代日本では猪と鹿が食肉の代表格だったので、両方ともしし、「鹿しし」とも呼ばれていました。

   その後時代が下がり、ししから「いのしし」になり、鹿ししが「鹿しか」になりました。

宍魚しびとは

 話を宍魚しびに戻します。 
宍魚しび(マグロ)は、鯛や鯵、鯖などとは違い、真っ赤な身が動物のししに似ているので、魚でありながらししの字が当てられました。

  「魚」の字は「な」と読むのが普通でしたが、なぜか宍魚しびの場合は「」と読ませます。この理由は分かりませんが、あるいは元々は宍尾しびだったのかも知れません。

妄想マグロ伝説

 さて、ここからは壮大な妄想マグロ伝説です。細かいエピソードは概ね事実ですが、最終的に裏付けはありません。あくまでも妄想ですが、筆者はまじめに、これが真実だと思っています。

  ❰マグロがマグロになった理由わけ

    マグロは外洋性の回遊魚で、江戸時代までの沿岸漁業では捕れない魚でした。例外として、紀州の勝浦や串本や南房総などでは黒潮が接岸する時期に、稀にカツオとともに捕れることがありました。しかし、カツオやマグロは赤身で痛みやすい魚なので、京や大坂、江戸という大消費地には届かず、漁港近郊でしか食べられない魚でした。※この時点ではマグロはまだ「シビ」と呼ばれていました。

黒船来航

 記録上、日本に初めて外国籍の大型船がやってきたのは、1791年(寛政3年)と伝えられています。儒学者の林復斎が外国との関係について編纂した史料集『通航一覧』によると、1791年(寛政3年)に紀伊国の大島浦(現在の和歌山県串本町)に2隻の異国船が寄港したとあります。ペリーが浦賀に現れる62年前のことです。

 アメリカの史料『マサチューセッツ海事史』によると、1791年にボストン船籍の「レイディ・ワシントン号」とニューヨーク船籍の「グレイス号」が南日本の港に入港したという記述があり、これが串本町に来た船だと思われます。

 アメリカの二隻は商船で、串本でラッコの毛皮などを売ろうとしたのですが、本州最南端で毛皮が売れるはずがありません。しかたなく食料と飲料水の補給をしようとしたアメリカ人船員に、串本の漁民が差し出したのがシビでした。

西洋人の魚感

 イギリスなどヨーロッパでは、日本ほど魚を食べません。したがって売っている魚の種類も日本ほど多くありません。鮭、鯛、鱈、舌平目、たまに鯖などでしょうか。国によってはカジキやヒメジ、最近はマグロもあるようですが、主に白身魚です。ですから、当然と言えば当然ですが、ヨーロッパでは日本のように魚を細分化して区別していません。マサバとゴマサバなんて区別は欧米人にはできないのです。

明石家さば

 串本でシビを提示されたアメリカ人船員は「Mackerel!」と言いました。

「mackerel」(日本式発音ではマッカレル)とはサバですが、欧米人が言うmackerelは鯖に留まりません。なにぶん今から200年以上前のことで、奴隷船員もたくさんいました。当時、魚を見分けられない欧米人や黒人奴隷は、サバやアジ、カツオ、マグロ、サンマ、ブリなどをすべて「mackerel」で済ましてしまうことがよくありました。

   もう40年ほど前の話ですが、明石家さんまさんが、アメリカで「Mackerel-Akashiya」と紹介されたという逸話があるほどです。

mackerel?

 船員が言った「mackerel」は串本の漁民にどう聞こえたでしょうか? 下をお聞きください。

    《  異国では「しび」を「まぐろ」と言うのか! 》
    
この話はすぐに紀州一円にひろがることになります。

濃口醤油で

 江戸時代末期、江戸では調理には鰹出汁と砂糖をタップリ使った甘じょっぱい、濃い味つけが主流となっていました。

   当然ながら出汁や砂糖に負けない醤油が求められました。江戸では紀州など、上方の醤油蔵に江戸料理向けの新しい醤油を作るように求めますが、京・大坂ではそんな醤油はまったく必要ないので、作ってもらえませんでした。

 そこで、自分たちで新醤油を作ろうと立ち上がったのが野田と銚子の人達です。しかし、醤油作りは意外に難しく、自分達だけではうまくいかないので、紀州から醤油職人を招きました。そのおかげで、1830年ごろに「関東地廻り醤油」(現在の濃口醤油)が完成しました。

 関東地廻り醤油の登場で江戸の料理は大きく変化します。中でも魚を醤油浸けにして保存することができるようになり、それまで江戸に届かなかった足の速い魚が、江戸市中で手軽に食べられるようになります。その代表例が早寿司(握り寿司)のけです。 

シビからマグロへ 

 江戸で大人気になった早寿司(握り寿司)のなかでも、シビの醤油けは一番人気でした。
「これは何て魚だい?」という江戸っ子の問いかけに
「まぐろだよ!」と答えたのは安房国(千葉県南部)あたりの漁民です。

 当時、房総半島では延縄漁が行われるようになり、シビがたくさん捕れました。そのシビを、紀州からイワシ漁のために移住してきた漁師や醤油職人が「まぐろ」と呼んだのです。

    新しもの好きの江戸っ子は
「知らねえだろ? まぐろってんだぜ!」といいふらすので、すぐにシビはマグロになり、江戸から日本中に伝えられましたとさ。めでたし、めでたし。

大阪人は見た!          学校では教えない京都の黒歴史。

▶祇園祭は存続の危機?
▶京都が京都と呼ばれない時代が
 あった
▶京野菜と京都カースト
▶京都の変な都プライド
▶聞きたくもない京都の裏情報
▶ふんわりと京都に癒されたい、 
    夢みる京都ファンは読まないで
    下さい!

いいなと思ったら応援しよう!