見出し画像

大和ことばとガラパゴスで西の高校生探偵!

 「大阪弁と京ことば」が思いの外好評を賜り、奈良と兵庫の方言も書いて欲しいとリクエストをいただいたので、まず兵庫県の方言について書きました。そして今回は奈良の大和ことばを壮大に妄想してみます。


十津川村の谷瀬の吊り橋

    例によって、筆者は言語学の研究者ではありませんので、ここに書くことはあくまでも筆者の私的考察といつもの妄想です。何も裏付けはありません。正しいとも限りません。筆者の基本スタンスである「面白半分」ですのでご容赦ください。

大和ことばは県北だけ

 奈良の言葉は大和ことばと呼ばれていますが、実は大和ことばは県北だけです。下の図の中央付近の赤点は西から五條市の天辻峠、天川村の小南峠、川上村の伯母峰峠(峠の位置は筆者が打ったおおよその位置です)で、現在の車道ができる前、昔の街道の難所でした。(※現在はいずれの峠も車で通行可能です) 昔のこの三つの峠は非常に険しく、峠を結ぶ青線(筆者書き込み)を境として、南北の往来はほとんどありませんでした。

    そのため、県北の言語はごく普通に進化したのですが、県南は周辺地域と人の往来がほとんど無かったために、言語がガラパゴス化しました。こういった言語特異地域を「言語島げんごとう」といいます。どうです? おもしろそうでしょ?
 言語島については後程詳しくお話しますので、まずは県北の「大和ことば」からまいりましょう。

大和ことば

   奈良の県北のほとんどは盆地で、盆地特有の気候ではありますが、比較的暮らしやすく、現在も県民の9割が県北に暮らしています。山深い県南とは違って、南以外の三方の山(丘陵)を越える道が比較的緩やかなので、古くから京都・大阪・高野山経由の和歌山・伊勢を結ぶ街道として人の行き来も多かったようです。そうなると当然、周辺各地の方言が入り込みやすいのですが、地理的に近い京と大坂の言葉の影響を強く受け、それ以外の方言は語尾や特定の言葉などに訛りが少し残る程度でした。

 現在の大和ことばも京・大阪の影響が強く、テンポの遅い大阪弁といった感じです。ただ、高齢者の中に昔の大和ことばの特徴である、ザ行音→ダ行音の交替発音が残っている方がおられます。これは紀州弁の特徴で、奈良に紀州弁が流れ込んだ証です。具体的には、日本テレビの「月曜から夜ふかし」で取り上げられた「雑巾→どおきん」「座布団→だぶとん」、元サッカー日本代表監督「ダッケローニ」、「007でろでろせぶん」というふうに発音します。

 近年の特徴として、大阪出身者が生駒市や斑鳩町、香芝市などの奈良県北西部でマイホームを購入し、大阪に通勤するパターンが目立っています。そのことから、大阪弁の奈良県民もたくさんいるはずですが、大阪弁と現代大和ことばはとても良く似ているので区別がつきにくいのです。

言語島げんごとう

 さて、お待ちかねの言語島についてです。先に、言語島は言葉のガラパゴス化と書きましたが、詳しく説明すると、長期にわたり、他地域との交流が断たれてガラパゴス化するパターン(隔絶型ガラパゴス)と、まったく違う言語を話す集団が移住して来て、その地域の過半数を占めてしまったためにガラパゴス化するパターン(集団移住型ガラパゴス)があります。
※言語島は言語学の学術用語ですが、ガラパゴス化は筆者が勝手に名付けました。

集団移住型ガラパゴス

 集団移住型ガラパゴスの例としては、北海道の新十津川町が有名です。1889年(明治22年)8月に起きた十津川大水害で当時の奈良県吉野郡十津川郷(現・十津川村)は甚大な被害を受けました。村民12862人のうち死者は168人、他に耕地の埋没、山林被害で生活基盤を失った人は約3000人にのぼりました。その3000人のうち2489人が国と県の主導で北海道・トック原野に移住しました。

 後程詳しく書きますが、奈良の十津川郷は隔絶型ガラパゴスの言語島なので、新十津川町は隔絶型ガラパゴスの住民が集団移住型ガラパゴスを引き起こした、二重言語島という極めて珍しい例です

    しかし残念ながらと言っていいのかどうか、現在の新十津川町では奈良の十津川村の方言はほぼ絶滅しています。調査によると、1960年代には奈良・十津川村の出身者(移住一世)は新十津川町民の一割以下だったそうなのでしかたがないのかも知れません。

 他に、千葉の房総半島南部や銚子市周辺の沿岸部では、江戸時代に紀伊半島からたくさんの漁師が移住したために、周辺地域にはない紀州弁の要素が濃く出ています。


紀州の鰯漁
 
大和ことばやガラパゴス化から少しそれるのですが、ついでなので書いておきます。

 紀州(和歌山県)では室町時代から鰯漁が盛んで、室町時代の終わりごろには大きな網を使って何艘もの船で行う大規模な鰯漁が行われていました。紀州でそのような鰯漁が発達したのには理由があります。

   室町時代の終わりごろから、近畿で綿花の栽培が盛んになりました。当時の綿花はとても儲かる現金作物で、近畿の農民はこぞって綿花栽培に乗り出します。しかし、良質の綿花を得るには良質の肥料が大量に必要で、近畿では干鰯ほしか〆粕しめかすが重宝されました。
 
 干鰯は鰯をそのまま干したもので、〆粕は鰯を煮て、脂を搾った後、乾燥させたものです。どちらも「金肥」と呼ばれるほど良質の肥料なので高値で取引されました。この鰯の供給を一手に引き受けていたのが紀州の漁師と大坂の干鰯問屋です。

    紀州の鰯漁は、当初は大阪湾や紀伊半島沖の太平洋で操業していましたが、だんだんと鰯を追って、東は黒潮に乗って房総半島、西は土佐を経て豊後水道にまで漁に出るようになります。 しかし、あまり遠出すると往復に時間がかかるため、現地に住み着く漁師が現れ、各地に紀州式漁業が伝えられました。例えば、房総半島に地引き網を持ち込んだのは紀州の漁師です。
    豊後国(現・大分県)では南部の沿岸に住み着いた紀州の漁師が、干鰯・〆粕の製法から大坂への出荷まで指導したと思われます。   後々、豊後の佐伯藩は干鰯を藩の専売品にし、藩財政再建の大きな助けとなりました。 
 
  一方、紀州では他の地方に住み着く漁師が増えたせいで漁師不足となり、大坂の泉南や摂津(現在の尼崎)あたりの漁師をスカウトするようになります。

 房総半島に紀伊半島と同じ地名(白浜、勝浦など)があり、紀州弁の名残があるのは、鰯漁と醤油醸造で紀州から大量移住があったためだと考えられます。また、大分県にザ行音→ダ行音の交換発音が見られるのも紀州弁の影響であると思います。


東京は大言語島

 そして、東京も大量移住型ガラパゴス地域だと言えます。江戸幕府開府から現在に至るまで、江戸(東京)には日本全国から武士・商人・労働者などあらゆる階層の人達がたくさん移住してきました。元々の江戸の住人の数はしれているので、ほとんどが移住者だといってもいいでしょう。そのため東京は世にも珍しい、大都会の言語島となりました。

    東京のガラパゴス化の特徴は、大量移住が長期間(現在も)続いていることと、移住者の出身地がバラバラであることです。そのため、あらゆる方言の坩堝るつぼと化していて、特徴的過ぎて逆に特徴がつかめない、とても珍しい言語島です。そんな状態に陥ると、行政や市民生活に混乱を来たしかねないので、どこの方言の人とでも簡単に意思疎通ができるように導入されたのが「標準語」です。他の言語島には見られない、東京独自のシステムであるこの共通プラットフォームのおかげで、訛りが完全になくなったわけではありませんが、会話は成立するようになりました。この独自システムがまさに国をあげてのガラパゴス化です。

 ついでながら言いますと、そんな東京にあって、頑なに標準語を使わないのが大阪人だと言われています。しかし、使わないのではなくて使えないのです。なぜ使えないのかは、いずれ別の機会に書こうと思いますが、東京コンプレックスが原因の一つだとだけ言っておきます。

隔絶型ガラパゴス

 隔絶型ガラパゴスの例としては、山形県鶴岡市大鳥新潟県村上市三面石川県白山市旧白峰村東京都の八丈島などがあります。どこも自然環境が厳しい地域で、奈良県南部の奥吉野地域もこれに含まれます。昔の奥吉野地域は、四方が険しい山で人を寄せ付けなかったことと、後で詳しく書きますが、奥吉野の十津川村が、よそ者を寄せ付けない特別な場所だったことが関係しているようです。

十津川村(奈良県の田舎暮らしを支援・サポートする移住関連情報サイト)

 その方言なんですが、奥吉野地域でも特に十津川村が有名です。十津川村の面積は、村としては日本一の672.35平方キロ(琵琶湖とほぼ同じ)ですが、その96%が森林です。その山深い里の方言は「奥吉野弁(十津川弁)」と呼ばれる、一見(一聴)東京の言葉のように聞こえる関東式アクセントが特徴です。文面でお伝えするのは難しいのですが、分かりやすいのは箸と橋でしょうか。大阪と東京の箸と橋は下の図のような発音になります。※音程は適当です。高低だけ見て下さい。

大阪の箸・東京の橋


大阪の橋・東京の箸


 奥吉野弁は関東式アクセントなので、言葉自体は関西弁でも関西弁に聞こえないのです。例えば「ちゃんと箸持たなあかんやんか」という言葉を関東式の発音にしてしまうと、セリフは関西弁ですが、耳に聞こえるのは関東の発音なので、関西人が聞いても、関東人が聞いても違和感があります。あえて言うなら西の高校生探偵のもっとひどいやつです。「かずはー、まっとれよー!」・・・違うか?!

 

なぜ関東式アクセントなのか?

 奥吉野地域が厳しい自然環境であるがゆえに、ガラパゴス化したのは分かりました。しかしなぜ関東式アクセントなのか? ということです。「京や大坂から人が来ないのに、関東から人が来たというのか!」 正解!! 

   その謎解きの前に、十津川郷の歴史があまりにも面白いので書きたいと思います。いや、これは都市伝説か? 歴史小説か?  というぐらいおもしろいお話です。

 

神武東征ルート

十津川の歴史

 十津川は昔から特別な地でした。それは古事記に記されている神武東征じんむとうせいから始まります。神武東征とは、神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこ(後の神武天皇)が、日向(宮崎)を発ち大和(畿内)を征服して大和の橿原に達するまでを記した神話です。


神武東征じんむとうせい

 日本を統治するために、高千穂(宮崎)を出発した神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこは、宇佐(大分)→筑紫(福岡)→安芸(広島)→吉備(岡山)と進み、何年もかけて難波(大阪)にたどり着きました。しかし、長髄彦ながすねひこという大和の実力者との戦いに敗れ、海に逃れます。

 難波(大阪)の戦いで兄を亡くした神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこは、大阪湾から紀伊半島をぐるっと回り、二木島・楯ケ崎(三重県熊野市二木島)に上陸し、紀伊半島のど真ん中を突っ切って大和(奈良)の橿原を目指します。

 上陸した一行の前に熊野の高倉下たかくらじという者が現れて一振りの太刀を献上するとともに、夢に高木大神たかぎのおおかみという天皇家を守護する神が現れて、『熊野・吉野の山中には強敵がたくさんいる。天から八咫烏やたがらすを使わすので、それについて行け』とおっしゃった。と言いました。

 その後、神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこ八咫烏の先導で、大和の強敵を負かしながら橿原に入り、そこに都を開き、即位して、初代天皇・神武となります。

ここから先は

3,503字 / 7画像

¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?