お釈迦様と忍野メメの回りくどい教え
これは、化物語の登場人物、忍野メメのセリフだ。
僕はこのセリフをセリフを初めてアニメで聞いたとき、衝撃を受けた。
うわー!!なるほど!!確かにッ!
・・ストンッ!
と、ハラに落ちた。
似たような言葉で、
ということわざもある。
どうやら、僕はこういった類の言葉が好きらしい。
なぜだろうか?
もう一つ、僕が好きなエピソードを紹介してみる。
お釈迦様のお話だ。
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ある時、お釈迦様のもとに子供を抱えた母親が訪ねてきた。
母親は、
「子供が病気で動かなくなってしまいました。どうしたら治るでしょうか?」
と、お釈迦様に尋ねてきた。
ただ、どうやら母親の腕に抱えた子供は、すでに亡くなっているようだった。
何か様子がおかしいことにお釈迦様は気づいていたが、お釈迦様は母親にこう言った。
「町に行き、今まで一人も死者が出たことのない家を探しなさい。そして、その家の芥子の実をもらってきなさい。そうすれば、病気は治るだろう」
すると、母親は喜んで町に戻り、家を訪ねて回った。
きっとすぐに見つかるだろう、と思っていたが、どこの家も、
「最近、母親が亡くなったばかりで・・」
「一人息子が・・」
という話が出てきた。
町には一人も死者が出たことのない家など、無かったわけだ。
そして、話をしている町の人々は、悲しそうな様子ではあるものの、どこか微笑んでいた。
母親は家を訪ねているうちに、自分が恥ずかしくなってきた。
町の人々は、しっかりと自分の身内に起きた不幸を受け入れ、それでも、前を向いて生活していた。
けど、自分はどうだ?
子供が病気ですでに亡くなっていることに気づいていたのに、受け入れることができずにいたわけだ。
そして、「かわいそうな悲劇のヒロイン」を演じ、自分に酔い、寂しさを埋めてくれる誰かに、優しくしてほしいと思っていた。
現実を自分で「悟った」母親は、しっかりと子供の死を受け入れ、その後、仏道を志したのだとか。
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以上、お釈迦様のお話。
ちょっと失礼な言い方になってしまうが、お釈迦様は何かを伝えるとき、回りくどい言い方を好んだそうだ。
先程のエピソードに関しても、母親に直接、
「その子はもう死んでますよ。悲しいでしょうが、現実を受け入れて、前を向いて生きなさい」
と、ストレートに言うこともできたはず。
でも、お釈迦様はストレートな言い方はしなかった。
なぜなら、それでは「悟れない」からだ。
現代風に言い直せば、「悟っていない」とは「ハラに落ちていない」ということだと、僕は思っている。
言葉で伝えて、表面上だけ「分かったつもり」になるのが一番危うい。
だからこそ、お釈迦様は自分の言葉を文章で残すことを好まなかったし、「体験を通じてハラに落とす」ということを、大切にしていたんだと思う。
そして、お釈迦様の教えは、冒頭に話した「人は一人で勝手に助かるだけ」というセリフにも、通ずるところがあると感じる。
お釈迦様のお話で出てきた母親においても、お釈迦様は確かに水辺に連れていくきっかけは与えたたかもしれないが、
あくまで実際に「水を飲み、悟る(気づく)こと」に至ることができたのは、母親が自分の意思で行動したからだと言える。
日常生活でも、仕事でも、誰かのためにアレやコレやと手助けしたくなる場合もあるだろうが、それは本当に「相手のため」になるのだろうか?というのを、立ち止まって考えてみてもいい。
時にはお釈迦様の話のように、相手に「回り道させる」というのも重要なことのように感じる。
回り道せずに直接教えたところで、相手は教えをうまく咀嚼できず、消化不良になってしまうからだ。
とはいえ、
相手のためを思うからこそ、直接手を出して助けたくなるし、ショートカットできる道も教えたくなる。
自分にとって大切な人であればあるほど、自分が味わった苦しみを「味わってほしくない」という思いが湧いてくる。
そして、歩く途中の障害物を先回りして全て取り除き、きれいでまっすぐな道を歩かせたくなる。・・ただ、それが本当に「相手のため」になるのか?という話なのだ。
僕が忍野メメのセリフやお釈迦様のエピソードが好きな理由は、
「自分で気づくことの大切さ」
を、気づかせてくれるから。
僕は自分で何かに「気づく」のも好きだし、他者が何かの影響を受け、「自分の中で気づいて成長する姿」を見るのも好きだ。
人が「あーー!なるほど!分かった!」みたいにワクワクしたり、「なーんだ、そういうことだったのか〜」みたいに安心したり。
人は「気づき」が得られたとき、見える世界が360度変わる。
言葉には「見える世界を変える力」がある。僕自身が言葉・エピソードを通じて世界の見方が何度も変わってきたので間違いない。
だからこそ、僕は「気づき」に繋がる文章が好きなのだ。