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【連載小説】バックミラーの残影 6の2

            残影の4(後編)
 
 翌年の三月末に橙太の家族は、仙台市の北部の住宅団地に家を新築し引っ越した。その団地は市郊外の丘陵地に造成されて、西側からは泉ヶ岳が望見され、夏になると家の窓から山の頂上に沈む太陽が見られるし、家にいながら真っ赤な夕焼けがいつでも思う存分堪能できた。

「わーい。新しい木の香りがする」

 末っ子の雅之が、大喜びで一番先に家に飛びこんだ。一階の各部屋を駆け巡り、階段を上って二階も廻り降りてきた。

「二階の部屋の窓から泉ヶ岳が見えた。僕の部屋、あそこがいいな」
「私は、東側の部屋がいいわ」

 弟に負けまいと二階を見てきた真奈が主張した。

「おやおや。二人とも、そんなに慌てなくても、家は逃げやしないよ」

 橙太が真奈と雅之をたしなめると、出し抜かれた健太が不安がった。

「僕の部屋がないよ、どこに入ればいいのかな」
「何をばかなことを言ってるの。真奈は女の子だから、健太と雅之が同じ部屋に入ればいいのよ」

 澄子の常識的な話に
「うん。それでいいね」との橙太の同調で子供達の部屋割りが決まった。

 その当時、アパート暮らしの若い夫婦にとって、庭付きの一戸建てを持つことは、家族の土台作りからも一般的な夢だったし、橙太と澄子は、給料の一部をできるだけ貯金し、資金を蓄え、さらに生活費を相当抑えてのローンを組み、新築の運びとなったのだった。ローンの返済は、かなりきつかったのだが、それは、初めのうちだけで、そのころの高度経済成長のおかげで、給料が毎年アップされ、ローンの負担が年ごとに軽減されていったのは予想外の幸運となった。
 新しい学校は住宅の近くだし、澄子の作った朝食を食べて、橙太はバスで職場に通勤し、少し遅れて子供達が登校し、澄子は、その後、食事の後片付けをして、団地近くに出店した弟のスーパーに出勤した。このような新宅での日常生活が始まり、毎日が淡々と過ぎていった。
 五月の中旬になって、その日も朝から晴れており、周辺の樹木の緑も濃くなって、薫風とともにさわやかな一日が始まった。

「僕。あまりご飯食べたくない」

 外の陽気とは裏腹に、長男の健太が早々と箸をおいた。

「あら。どうしたの。いつも食欲旺盛なのに、 体の具合でも悪いの?」

 母の澄子が、心配して健太の顔を覗き込んだ。

「ううん。何でもない。今日は、真奈と雅之は先に行っていいよ。僕は後から行くから」
「ええー。二人で」

 真奈は、一瞬戸惑ったような声を出したが、
「いいわよ。今日は、私と二人で学校へ行くのよ」と雅之の顔を見た。

「二人で?いいよ」

 雅之は、何の迷いもなく素直に頷いた。
 そんな様子を見ていた澄子も、橙太が既に出勤していて、相談もできず、健太が気乗りのしない表情で登校するのを見送った後、職場に向かった。
 夕方に橙太が仕事から帰ると、今朝の健太の状況が澄子から報告された。

「健太。今朝はご飯を残したとか、具合悪かったのか」
「うん。何か食べたくなかったんだ」
「それだけなの?」
「そうだよ」

 夕食の時に、橙太が健太に探りを入れたが、何の手掛かりも得られず、話はそのままになった。翌日からは、ご飯も残さず、あまり元気そうには見えなかったが、いつものように登校するようになったので、その話はそのままになった。
 それから三日後の夕方、澄子が仕事から帰ってくると、待ちかねたように真奈が母に告げた。

「お母さん大変よ。さっき学校から帰ってくる時、校門の陰でお兄ちゃんが皆にからかわれていた」
「何て言われていたの」
「おーい、かめやんという風に聞こえた」
「何なのそれ?健太を呼んできて」

 いじめを受けているのかしらと、澄子の頭にチラリとそんな疑念が浮かびとにかく健太に確かめようと思った。

「健太。皆にからかわれたようだけど何かあったの」

 澄子は、健太が階段を下りてくるなり、待ちきれず、つい、詰問調になった。

「えっ。何もないよ。真奈が告げ口したんだな」

 健太が、母の横にいる真奈をにらみつけると、真奈はサッと母の後ろに隠れて、兄の顔色を窺った。

「何もなくはないみたいね。一体どうしたの。話してみてくれない。」

 余り気色ばんでは、言いだしづらいだろうと思い、澄子は心を落ち着け、穏やかな口調に転じた。

「本当に何もないよ。ただ、クラスの体育の時間に五十メートル走で、僕がビリになったら、皆が面白がってからかってきただけなんだ。僕が、『ウサギと亀だって、ウサギが油断して最後に負けたんだから、君らも気を付けたらいいよ』って言ったら、何だか、皆、顔を見合わせて居なくなった」

 健太はいかにもこともなげに一部始終を説明した。

「何もないって、あったんじゃないの。でも、あんたがあまりにも平然とたとえ話を出したもんだから、拍子抜けして退散したのね」

 澄子は健太の話を聞き、息子の鈍感さなのか肝っ玉が太いのか分かりかねたが、そのことで気落ちしたようには見えなかったので、ほっと息をついた。三日前の登校前の食欲不振との関連性も気になったけども、この話ではと表に出す機会が失われてしまった。

「健太は、肝が据わっている。たいしたもんだ」
「えへへー。そんなでもないよ」

 夕食時に、この話を聞いた橙太は、何の疑いもなく健太を褒め、表面的には事もなく終わった。
 翌週になって、澄子が仕事を休んだ日があった。子供達の登校した後、朝食の後片付けも終わった頃に、近所の杉枝と海坂という名のママ友二人が澄子の家に来宅し、話が弾んでいた。

「息子がね、先日、駆けっこでビリになって、皆にからかわれたみたいなのよ」

 澄子が黙っていられなくなって、つい口に出して二人の顔を見た。

「うちの子もね、二年前に引っ越してきたときにやられたみたい。だけどね、すぐに一番近くの子にとびかかって投げ飛ばしたら、皆が逃げたそうよ」

 澄子の話を聞いて、海坂さんが面白げに話しをして笑った。

「もっともね、うちの息子もウサギと亀の話をして煙に巻いたみたいだけど」

 海坂さんの話につられ、澄子も心が軽くなり笑った。

「二人とも笑っているけど、うちらの子供達のクラスには、どうもいじめグループがあるみたいよ。グループの親玉がPTA会長の息子でね、親の威を借る何とやらで、学校も黙認しているみたいなのよ」

 二人の話を聞いていた杉枝さんが割って入ってきて、話題が突然に深刻の度合いを深めた。

「それって、何。学校が知らんふりしているなんて」
「許せないわね。いじめが堂々とまかり通っているなんて」

 澄子と海坂さんが同時に声を出して、顔を見合わせ笑った。

「笑ってる場合じゃないのよ、これは。あなた方の息子さん達も被害者だし、どう、いい機会だから、この次の授業参観の時に保護者懇談会で話し出しましょうよ」

 杉枝さんが二人の雰囲気に煮え切らなさを感じながらも、決然と言い放った。

「でもねえ。相手はPTA会長さんよ」

 急に真面目な顔になって海坂さんがしり込みした。

「だからいつまで経っても良くならないのよ。うちの子もね、二年の時いじめられて、泣き寝入りしたのよ。この際だから、ねえ、佐山さん」

 澄子は、杉枝さんにまともに名指しされ、心の整理がつかないままに相手の勢いに押されたかのように曖昧に頷いていた。
 五月の末になって、五年生の授業参観が行われた。健太のクラスは二組で、担任は、四十過ぎの崎本という女性教師が四年生から受け持っていた。今日の授業は、児童達に提示された、一つの寓話に関する各人の感想文を自分で読むことだった。その寓話の要旨を記せば次の通りとなる。

 ある村のはずれの森の中に、一匹のキツネと一匹のタヌキがいた。この二匹は、お互いに仲が悪く、村の人達に悪さをしては、人々の困る様子を自慢しあっていた。ある日、キツネとタヌキは、人にとって一番怖いものへの化け比べをすることにして、神様に審判をお願いした。神様は、審判を引き受けたが、それは、二匹のあまりの悪さに、少しは懲らしめねばとの考えからだった、
 キツネとタヌキの化け比べが始まると、キツネは、毎夜毎夜、〔いったんもめん〕や〔のっぺらぼう〕〔ろくろくび〕などのありとあらゆる妖怪に変化し、村中を歩き回り、人々を怖がらせた。
 けれどもいつまでもうまくいくとは限らなかった。その夜は、赤鬼に変化して村はずれの民家に入ろうとしたら、思いもかけず、その家の番犬に感づかれ、吠え掛かってきたので慌てて逃げようとしたらかみつかれ、何とか森の中まで逃げ切ったものの傷ついてしまった。
 一方、タヌキはというと、こちらは、村の真ん中の道路の上で、何と、妖怪ではなく、人は誰でも欲しがる小判に化けて、チャリンと転がった。しばらくしたら農夫がやってきてこれを見つけ、周りを見ながら拾い上げた。するとバタバタと商いの人が駆け寄ってきて、その小判を農夫から取り上げようとした。

「その小判は、わしが落としたものなので返してちょうだい」
「俺が拾ったんだ。俺のものだよ」

 二人が力まかせに取り合ったものだから、小判ははずみで道路に転げ落ちてしまった。その小判を二人のもみ合いを見ていた狩人が拾って、何食わぬ顔で立ち去ろうとした。それに気づいた二人が同時に狩人に寄り付き、今度は三人のもみ合いとなった。もみにもまれてタヌキは気が遠くなりそうになり、もう一度道路に弾き飛ばされた瞬間、元の姿に戻り、慌てふためいて、よたよた逃げ出した。
 キツネとタヌキがそれぞれのすみかで傷ついて寝ていると、神様の声が聞こえた。

「どちらも痛さが応えるだろう。これに懲りて、悪さはもうやめるのだな。怖さは人それぞれだけど、それにしても人の心の欲の深さよ」

 最後はつぶやくように言って、神様の声が消えた。

「それでは、始めましょう。最初は荒元咲江さん」

 崎本先生が発表の開始を告げ、名前を呼んだ。

「私は、キツネとタヌキが可哀想になりました。どうしてかというと、意地をはりすぎてけがをしたのですから。お互いに相手を認めて、仲良くするのが良いと思いました」
 

 児童達の発表は、そのつど先生の寸評が入り、拍手で終わり次から次へと続いた。

「それではっと、海坂雄吾くん」
「キツネの化けた妖怪も怖いけど、タヌキの化けたお金が人に争いを起こし、もっと怖かったです」

 何人かの発表の後に、PTA会長の息子、久守信也が指名された。

「タヌキがお金に化けたのはどうかなと思いました。お金は、皆が欲しいし、生活に必要なものだし、僕は怖いとは思いません。タヌキにも妖怪に化けて欲しかったです」

 それから二人の後に健太の番となった。

「僕は、お母さんにいつも嘘をつくとエンマ様に舌を抜かれるよと言われています。キツネとタヌキが神様に懲らしめられたのは当たり前と思うし、誰でも他の人に悪さをするのはよくないことだと思いました」

 澄子は、うまくできるのかと不安な気持ちで、健太の発表を聞き、自分の日頃言い聞かせている話が息子の心にある事に少なからず嬉しさを感じ、目頭が熱くなった。それに、寓話の内容を現実の問題に当てはめていることに洞察のまともさを感じた。
 発表が進み、やがて杉枝凛子が指名された。

「私は、お母さんとお父さんと一緒に動物園に行きキツネとタヌキを見ました。とても可愛くて人をだますなんて思えませんでした。だますのは良くないことなので、皆が仲良くして欲しいです」

 それを聞いて、朗読の切実な調子に、後ろで聞いていた父兄達の間に軽いざわめきが起きた。

 授業参観が終わり、保護者懇談会が始まった。先生がクラスの近況を報告した後に、父兄の一人が質問した。

「先生。先ほどの授業参観の狙いは何でしょうか」
「そうですね。児童の理解力の向上というか、つまりは、問題の把握と改善策への考究能力の向上を目指しております」

 しばらくの間はそのような授業に関する話が続いたが、頃合いを見て、澄子のママ友、杉枝さんが発言した。

「先生。話は変わりますが、このクラスに集団によるからかいがあるとの噂があります。先生はご存じですか」 

 思いもよらない質問に、崎本先生は戸惑ったような表情を見せ、黙り込んだ。少し考えてからゆっくりと話し出した。

「噂の話には答えようがないですけど、一般的には、児童と児童のもめ事には、自主性を尊重して、お互いの折り合いに任せています。何でも先生が介入しては、児童達の自主性が委縮してしまいますので」
「基本的には、それでよいと思いますが、限度というものがあるのではないですか。一対一の喧嘩ならいざ知らず、数名でと聞いていますよ。それはいじめではないのですか」

 杉枝さんは納得せず、さらに食い下がった。

「杉枝さん。噂の話で先生を追い込んでもなんですから、ここはそのぐらいで納めてはいかがかしら」

 保護者会の連絡員をしている荒元さんが事態収拾に動いた。
 それを見て、澄子が、先日のお茶飲み会を思い出しながら、杉枝さんの娘の切実な発表も頭をかすめ、とっさに助け舟を出した。

「その噂は私も聞いていますよ。嘘かどうかは分かりませんが、いじめは出てからでは遅いですから、何らかの防止策を考えたらよろしいのではないでしょうか。久守さん。いかがですか」

 澄子は、大胆にもいじめの張本人の母親に話題を振った。

「そうねえ。いじめは良くないことだし、子供達の自主性を損なわない範囲で何か対策するのは必要と思いますよ」

 案の定、息子のことを知っているのかどうかは分からないが、建前上反対はできないだろうと考えての澄子の思惑は的中した。

「折角の話だから、これは校長先生のお耳にも入れたらいいんじゃないかしら。この事で、話の出している五人が代表で校長先生に面会しましょうよ」

 この前のお茶飲み会ではしり込みした海坂さんが、突然前のめりになり、事態を前進させた。すったもんだのあげく、担任の先生が校長の都合を確かめ、二対五の対談が実現して、いじめ予防の対策をすることとし、家庭と学校が一丸になっての児童達に対する啓もうが始まった。

 結婚して、最も満ち足りたというのは、新婚の時期はともかくとしても、何といっても子育ての時期ではなかったかと思われる。とは言っても、男の橙太は仕事に専念していれば良かった訳で、本当に身近で育て苦労したのは澄子なのだ。子供が生まれるにしたがって家族が増え、家庭は賑やかになり躍動する。時には喧嘩になることもあるが、それは、些細なコップの中の嵐ですぐに収まり、絆はさらに強くなる。
 橙太と澄子の三人の子供は、時にははやり病に感染したりというようなことを除けば、特段の問題もなく、順調に生育したといえる。学業についていえば、三人ともそんなに苦労せずに、高校は仙台市内の進学校に入学して、そこから、大学は、健太が東京の、真奈と雅之は仙台の国立大学に進んだ。
 子供には自分と同じ惨めな思いはさせたくなかったので、三人が三人とも大学に入れたことに、橙太は、本当に嬉しくて満足した。これは本人達の力なのだが、澄子は、神社から合格願のおみくじを頂き、神様にもお祈りするほどの気持ちの入れようだった。
 人の一生を見れば、親子がともに同じ屋根の下で暮らせるのはそこまでで、子供達は、遅かれ早かれ巣立ちを迎える。橙太の家族も例外とはならず、健太は、大学に入ると同時に、東京に向かい、真奈も雅之も大学を卒業すると就職して、家を出ていった。
 子供達が皆家を出て行って、あんなに賑やかだった家の中が急に静かになった。結婚当初の二人きりの生活に戻っただけなのだが、何かわびしく寂しい気持ちが二人の胸に漂い離れなかった。

「子供達、元気にやってるかしら」

 ある日の夕食時に澄子がポツリと口に出した。

「もう大人なんだから、心配しなくていいんじゃないの」

 橙太がそれを聞いて、強がりを言ったが、実のところ心配であることに変わりはなかった。日中は仕事があるから、心が紛れたが、夜はそうはいかないのだ。子供達は、それを知っているのか知らないのか、一向に便りが届かない。便りのないのは元気な証拠だと理屈では分かっても心が納得しない。たまに電話があれば、橙太と澄子は電話の取り合いで、子供の近況を訊こうとした。

 真奈が、市の教育委員会に就職して五年が経った。その年の4月の半ば頃に真奈から電話がかかってきた。

「もしもし。お母さん。この次の土曜日の午後、家に帰るから」
「おやおや。しばらくぶりだね。何かあったの」

 母親独自の勘というか、いつもと違う風に澄子には感じられ、つい問い返していた。

「うん。お父さんは土曜日にいるの?」
「午後にゴルフの打ちっぱなしに行くとか言ってたけどね」
「ふーん。実はね、会って欲しい人を連れて行くから」
「何よ、急に。どんな人なの」
「いい人よ。見れば分かるから、じゃあね。電話切るから」

 そそくさと電話を切った真奈に、澄子はもっと訊きたいことがあるのにと、唖然として、受話器を手に持ったまま立ち尽くした。
 土曜日になって、橙太はゴルフ練習に行くのをやめて澄子と共に、落ち着かない気持ちで真奈が帰るのを待っていた。午後の一時過ぎになって、玄関のチャイムが鳴り、ドアのあく音がした。澄子が急いで玄関に向かい、橙太もその後に続いた。

「只今」と真奈が顔を出し、すぐに後ろを振り返り男の人を招き入れた。

 真奈は、こちらが両親ですと男の人に手で指し示したので、橙太と澄子は軽く会釈をし、紺の背広をピリッと着こなした面長の好青年を観察した。

「谷市公丸と申します。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。まあまあ、堅苦しい挨拶はそのぐらいにして、さあ、どうぞおあがりください」

 澄子が如才なく声をかけ、公丸を居間に案内した。何しろ真奈からは何も聞いていない相手であり、橙太も座卓をはさんで、対応の度合いを測りかねていた。天気の話やら、プロ野球の話やらテレビのドラマの話やら当たり障りのない話でその場をしのいだ。公丸も同じと見えて、緊張の面持ちで受け答えしていたが、真奈は、そんな二人を何やら楽しそうな表情で見比べていた。澄子がコーヒーを淹れてきて皆に配り、橙太の横に座った。

「お父さん。お母さん。谷市さんはね、市内の一番町にある森川設計事務所で働いている設計士ですけど、両親の仕事の関係で子供の時に福島から移住してきたんだって」

 真奈が澄子の座るのを見て、改めて公丸を紹介した。

「設計士ですか。どんな建物を設計するのですか」

 橙太が興味深げに身を乗り出した。

「店舗でいえば、売り場の配置とか、美術館でいえば、展示場所の配置とか、いわば建物内のレイアウトの設計ですね」
「へー。建物本体の設計ではないのですか」

 橙太は、自分の設計についてのイメージと違う公丸の説明に、曖昧な表情を浮かべた。

「はい。一般の家屋内の部屋についても、その内部の装飾なども手掛けています」
「谷市さんは、芸術的感覚がすごいんだから」

 真奈が憧憬の眼差しを公丸に向けた。

「おやおや。あなたの使っている部屋は乱雑だから一度見てもらったらいいじゃないの」

 その話を聞いていた澄子が橙太を見て茶化した。

「おいおい。それじゃ仕事にならんでしょう」

 橙太が大真面目に反論すると、
「冗談よ」と言って澄子が笑い、それにつられて。皆が笑った。

 その場の雰囲気が和らいだのを見計らって、真奈が両親に顔を向けた。

「谷市さんが今日見えたのは、お父さんとお母さんにお話があるからよ」

 それを聞いて、公丸が、崩していた足を座りなおして、真顔になった。それに応じて、橙太もあわてて正座したものだから、場の雰囲気は、前よりも固くなった。

「実は、真奈さんと知り合ったのは、僕が仕事の関係で市役所に出向いた時、廊下の角で二人が鉢合わせしそうになって、真奈さんの持っていた書類が散乱して、それを必死に二人で拾い集めた時でした。それ以来です。それで、僕は、真奈さんと結婚を前提にお付き合いしたいので、ご両親にも知っておいていただきたいと思いまして、うかがいました」

 それを聞いて、初めは結婚の申し込みかと緊張したのにそうでないと分かって、橙太は幾分拍子抜けした気分になった。それにしても、公丸の遊び半分でない誠実さを感じ、娘を取られるとの感情も浮かばず、むしろ好ましい印象が心を満たした。

「お互いが同じ思いなら親としては、反対はしません。なあ、澄子」
「ええ、そうですよ。早く結婚できることを祈ってます」

 真奈と公丸は、真奈の両親の応諾の返事を聞き、顔を見合わせ安堵の笑みを浮かべた。
 その後、二人の交際は続き、お互いの理解と思いがつのり、やがて、翌年の五月吉日に二人は市内の式場で結婚式を挙げた。人生における最大の節目で花嫁姿がよく似合う娘の輝きに、橙太と澄子は、嬉しくて心が浮き立った。特に澄子は、これまでの子育ての苦労がこの瞬間に報われたような気がしてならなかった。
 披露宴は、ウエディングケーキ入刀、ゲストのスピーチなど滞りなく進んだ。和装から洋装へのお色直しの後には、友人たちの歌や楽器演奏などがあり、宴は終わりに向かい、やがて両親への感謝の手紙が新郎新婦によって朗読された。
 両親達が宴会場の入り口に立ち、真奈と公丸は、両親の前まで歩み、切々と手紙を読み上げた。真奈の手紙は次のような内容だった。
 

〔お父さん、お母さん。長い間私を育てていただきありがとう。これからは、公丸さんと二人で幸せになりますからご安心ください。子供の時は、海や山や動物園などに連れて行ってもらい楽しかったです。三輪車やお人形さんを買ってくれたり嬉しかったです。クリスマスにはサンタからのプレゼント、お正月はお年玉と毎年心待ちにしてました。熱の出た時なんかは、夜でも医者に連れて行き、夜通しの看病と、両親が本当に私を大事に思っているんだと安心したことを覚えています。子供のころはいい思い出が多いものの、大学の受験期はちょっとつらかったです、思い出のなかでも、とっておきは、小学校の運動会の借り物競争で、帽子を借りようと走り寄ったら、お母さんが私の手を取って走り、ゴール前で帽子を渡され、一等になったのよね。びっくりしたけど、お母さんと一緒に走れて嬉しかった。本当にありがとう〕

 橙太は、真奈の手紙の朗読を聞き、子育て期間の色々な記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、胸が熱くなった。眼から涙があふれるのを必死にこらえていた。隣にいる澄子は、ハンカチで眼を抑え、涙をふきながら感涙に身を任せているのだった。


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