貧困を白米に乗せて喰らう
セブンイレブンでの、チケットの支払いが終わる。 支払いもカードだったし、あっけない。
本体も電子チケットで発券となるから、きっと、あっけないのに、重みがあるんだろうな。
だって、生まれて初めてのライブが、好きなアーティストって。どんな気持ちだろう。
あたりまえに嬉しいだろうし、先行きが良い様な気がする。
お金が目減りしているだろうけど、最近はカードで支払うことが多いため実感がない。
現金を使うのが怖い。
今年はお金の管理をちゃんとしようと、がんばっていたけど、ちょっと限界。
管理する時間がとれないから、どんぶり勘定の連続で、なにがいくらかかっているのか、把握できていない。小説家になったら、確定申告とかインボイス制度とか勉強しなければイケないことが沢山あるだろう。その一貫として、今年の目標にお金の管理きちんとしましょーとなったのだ。
お金がない、ということも、不安の一つだ。
もともと、お金の概念があまりないほうで、有るだけ使ってしまうし、そのかわり、あまり執着はないほうだから、気楽なこともある。もう、40歳にもなったのだから、いい加減にやっていてはだめだと思うのだけど。
とにかく、生活は厳しい。
住民税は非課税世帯ではないけれど、ぎりぎりのラインだろう。手当なども満額もらえないのだ。だから、万が一、今より余裕がでたならば、わたしの生活は物質主義になってしまうかもしれない。
そのためにも、もっとしっかり考えなければならないのだ。
必要な物は、買わなければならず、もやしや、輸入の肉や、外国産の大豆を使った豆腐を食べることには、わからないけれど、抵抗がある。 食材の選び方に関しては、母の影響もかなり大きい。
添加物や着色料を避けるようになったのは、母がそうしていたからだった。母は料理上手なのだ。味付けはどれも、ほっとする味だ。定番のものが多いが確実に美味しい。
それなのに、うちは、あまり朝食のない家庭だった。朝食がないということは、自分でなんとかするしかなくて、自ずと料理が好きになった。
家族で食卓を囲んだことは、もちろん数え切れないほどあるはずなのに、どうしてか、あまり記憶がない。
結婚して、家を離れる前の晩だったか、生協か、アークス系列のスーパーか、どこかで買った総菜を山ほどテーブルに並べて、母と二人で食べた。最後の晩餐だねと言って、パツクのまま食べた。
全部油っぽくて、本当に、まずかった。
結婚することになったころは、本当にいろいろあったのだ。
色々か。そうだ。
ずうっと。
そうだった。
それはわたし人生そのものだし、かけがえのない全てだった。
過去がなければ、わたしは小説など書いていないだろうと思う。
お金がない。それについて、考える。すると、ひねくれた考えに至り、なんでもお金で解決できないのだ、と開き直りたくなる。
もっと、きりつめて生活している人も居るのに、けしからんと言われても、本を買ったり、おやつをかったり、みんなで出かけたりするのをケチってはいられない。
土曜日は、ラウンドワンに家族で行く予定だし、植本一子さんと、太田靖久さんのオンラインもある。
もっと、もっと、何かを得たいと思う。
それは、お金を払って得られる事が今のわたしには多い気がする。
セコマで、ジャスミンティーを一本購入し、コインランドリーへ。
家族の普段ばきのスニーカーが、学校行事の稲刈りの時に汚れていたので、洗いにきたのだ。
本当は、風呂場でごしごしやって、自宅で乾かせばよいのだけど、気力がない。
そもそも、一足しか与えてないから、必然的にコインランドリー一択なのだ。
洗うのは、なんとか気力を振り絞れば出来ても、半日では、当然乾かないのだ。
洗うのと、乾かすので500円の出費。
ネット記事で見た、貧困度をチェックできるスコアシートのようなものに、『はける靴が何足ありますか?』のような欄があったはずだ。
わたしは、それを見たとき、情けない気持ちになった。悔しかった。
こんなに、がんばっているのに、どうしてだろう。どうして、一足しか、買ってあげられないんだろう。
子供靴のサイズも、もう大人と同じで、変に安っぽい物ははきたくないだろうし、お洒落な流行の物で、本人の好きな物を選ぶと、5000円以上は確実にかかる。
それを、我慢させて、身の丈にあった3000円台のにするのが、いいのかわからない。
二足有った方が、痛まないし、交互にはけば長持ちするのかもしれない。
厚底ぎみの、フィラのスニーカーを、靴洗いの洗濯槽から取り出すと、ぜんぜん汚れが取れていなかった。
わたしは、着ていたアウターの袖で、泥汚れを拭って、乾燥機にかけ、また日記をかきはじめる。
コインランドリーは、無人で、これから取りにくる誰かの洗濯物が、洗濯槽の中でまるまっていた。