「家族」という幻想に苦悩した思春期
昔、私の家は共働きだった。
学校が終わって家に帰っても特にすることがなく、いつも同じ時間に同じ子供向け番組を見ていた。
夕焼けが窓から差し込む中、自分の周りの空間だけが現実とは違う場所にあるようで、なぜだか少し胸が苦しくなったのを覚えている。
内向的な子ども時代
母親は仕事柄、比較的早く帰ってくることがあっても布団に入って寝る時間になってから帰ってくることも多く、なかなかに不安定な生活を送っていた。
そのため、その時期の母親への印象はリビングで横たわって気絶するように眠っている場面がほとんどだった。
父親は家庭に無関心だったので、帰ってきてもパソコンをしているか、これまた同じようにリビングで横たわって寝ているばかりだった。
親が起きているときに学校のことや身近なことを話そうとしてみても、上手く話すことができなかった。
それに母親はよくテレビを見ていたため、仕事から疲れて帰ってきて楽しそうに笑っているのを遮ってまで話をするのは憚られた。
父親は酒をよく飲み、飲んでいると全くもって話が通じなかったので、まともなコミュニケーションを取ったことがほとんどなかった。
私は、自分の話をするのにあまり慣れていなく、言葉を上手に紡ぐことが苦手だった。
ある時期から兄との喧嘩が増えていった。
唐突な暴言や小競り合いを仕掛けられることが多くなったが、私からすると理由が分からず、このことを母親に伝えようとも喧嘩両成敗のような形で気にも留められていなかった。
直接聞いたことはないが時期から察するに、兄は学校で上手くいっていないようだった。
そのため、家の中でストレスを発散していたのだろう。
その格好の的となったのは、妹である私だった。
私は、だんだん疲弊していった。
一人っ子ふたり
私が中学に上がって環境の変化についていけなかったとき、既に兄は不登校からの引きこもりが長期化していた。
母親はいつも空元気な様子で、私が学校であった事などを話したりしても、返事が遅れたりしてどこか上の空だった。
いつ頃からか兄は暴れるようになり、家族の誰も手がつけられなかった。
母親は、今まで見たことがないくらいに情緒がおかしくなっていた。
初めて悲痛に泣いているのを見た時、私は見ていられなくなり、「無力な末っ子」であることを呪った。
子どもながらに母親が心配でいつか壊れてしまいそうで、学校や友達関係のことなど相談できなかった。
母親にいつかの日に「あなたはしっかりしている」と言われたのが誇らしく嬉しかった。
だがら、私は大丈夫だと思い込んだ。
本当はテストで良い点を取ったとき、もっと褒められたかった。
人生で最も大切なときを、ちゃんと見ていて欲しかった。
私は、出来損ないの兄を恨んだ。
些細な過去のことを何度も掘り返し母親を強く責め立て、精神を追い詰めたことがどうしても許せなかった。
人生の全てを醜く責任転換するさまに、心底軽蔑した。
疫病神のような兄という存在を、この世からなかったことにしたかった。
家族とは、初めて出会った他人である
その頃は、自分と他人の家庭の違いがどうしても目についてしまうことが多く、その度に如何ともし難い感情に襲われた。
他人と自分の何がここまで違わせるのか、ずっと考えていた。
同じ屋根の下に生まれただけで、どうしてこうも「家族」というものは呪われているのだろうか。
家族の人生と自分の人生は、実のところ密接に繋がっていた。
私はそれに、ほとほと嫌気が差した。
しかし、結局のところ自分以外はみんな他人なのだ。
私は私の人生を生きるほかないだろう。