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武士道の国ニッポン と グローバル化

今私は新渡戸稲造の「武士道」を読んでいる。
これは新渡戸氏がアメリカ滞在中に
英語で書いたものであり、それを和訳したものが
この書籍である、なんて初めて知った。

本来の意味を損なわないようにと
当初の和訳文体から大きく変わっていない。
よって若干読む速度を抑えられてしまうが
非常に読み応えがある。

これを読んでいて思ったことがある。

それは
日本人はグローバル化に順応するのが難しい民族なんじゃないか
ということである。

武士道とは、いわば日本の「道徳」である。
西洋ではキリスト教が政治や文化に深く浸透し
人々の道徳観もそこから影響を受けてきた。
一方日本は単一の宗教に囚われず
仏教や神道を手本とし、さらには孔子や孟子など、幅広い思想を受け入れて独自に道徳観を発展させてきた。

その日本独自の道徳観のキーワードは
「精神」であろうと私は思う。
目に見えない精神的な部分に重きを置いていて
義、仁、忠義など、何事に対しても誠実で、
正直であることを重視する。
また謙虚さを美徳とし、相手の感情を慮り
さりげなく行動する。
実に美しい道徳観だと思う。

しかしそれは、同じ「道徳観」を共有している日本人同士で初めて成り立つものであり、海外の人間には理解できないことも多い。

面白い例えがあった。

第六章「礼」において、西洋人の日本人に対する
印象が述べられており、当時(19世紀)の西洋人は日本人の「礼法」について「賤しめて批評」していたという。

日本在住のとある婦人宣教師は著者に対し、
日本人の礼法は「おそろしくおかしい」とも言っていたそうである。
例えば
『炎天下で日傘をさしていない時に知り合いの日本人と逢い、戸外で話している。
すると、日本人は帽子をとって(これはいいが)、さらに日傘まで下ろした。
それはおそろしくおかしい仕草だ』という。
日本人は「相手が日差しに打たれているのであれば、自分も同じ苦痛を味わおう」
という考えで行動した。しかしそうした価値観は西洋人には理解できないようだ。

また、贈り物を贈る際、アメリカはこうだ。
「素晴らしい君に素晴らしい贈り物を授ける」
しかし日本はというと
「素晴らしい君に見合うものなんてあるはずがない。だからこれは私の好意の記として受け取ってください」
要はアメリカは贈り物の物質について言い、
日本は贈り物を差し出す精神を言っているのであるが、こうした場面で西洋人はしばしば当惑していたようである。

まとめると(私の独断と偏見だが)
日本人は
よく言えば「繊細」。
悪く言えば「回りくどい」。

そういうことな気がする。

これは島国特有の気質だと推測する。
他国から侵略される危機感もなく
厳しい自然の中に身を置く日本人は
その精神世界を深め合う「余裕」があった。
したがって互いに心の奥底を細かに「感じ合って」
それを「武士道」の掟に当てはめて行動していた。

一方大陸の人々は、常に他国から侵略される可能性があり、言わば「食うか食われるか」という世界で生きてきた。そうした中では日本ほど精神世界を重視する余裕もなかったはずである。
また、侵略の危機感を常に持つ生活では
何事に対しても受け身ではなく主体性を重視する価値観が育まれるであろう。
したがって道徳観も「謙虚さ」よりも「奉仕」の精神が強いのではないか。

そうした歴史的地理的背景の違いのある人々が
簡単に分かりあうのは難しい気がする。

また「武士道」が出版されたのは19世紀終盤であるが、日本人の精神は当時とあまり変わっていない気がする。「空気を読む」「察する」「忖度する」という行為はいまだに日本社会で重要な役割を担っている。(ちょっとこれは私は苦手だが)

武士道という道徳心から来る日本人の精神は
令和を生きる我々にも脈々と受け継がれている。
それは素晴らしいことだ。
素晴らしいことなのだが、
その日本人が欧米を中心とする社会価値観に合わせていくのは至難の技なのではと思う。
欧米人に「察して」欲しいと言っても
到底理解されない。
また「グイグイ」来る彼らに「謙遜こそ美徳」と言って我慢し続けても
それが「美徳」だと伝わらないばかりか、
意見がない奴とレッテルを貼られ終わりである。

だから、経営者とか政治家とか商社マンとか、
世界を舞台に活躍したい人は自己主張を徹底し、受け身でなく主体的に動くことをやればいい。
今求められるグローバル人材は確かにそういった人たちだ。
そして仕事とプライベートを完全に分けて
効率第一で働けばいい。
ただ、日本人全員がそれができる訳ではない。
なんだか、日本は全国民にグローバル人材になれと圧力がかかっている気がする。それは国の方針もあるが、それを利用した商業目的で「脅迫する」ような風潮もあるのではないか。

私は正直自分がめちゃくちゃ日本人的な精神を持ってると感じる。だからこそ、そういう自分を捨てて、国際的な価値観を身につけようとしてきた(というかそういう空気に流されていた。日本人的な自分はこのままだと生き残れないと思い、自分も日本人も否定してきた。実際日本の嫌だなあと感じることもあるっちゃある。それを記事にしたりしたこともある・・・けど)。
別に海外に出る訳ではないが、保守的な考えを捨てて、
「合理主義」「生産性向上」「自己主張」「結果第一」
みたいなことを重視して生きてきた。
しかし個人的に色々とあり苦悩を重ねた結果、
「自分は自分でいいんじゃないか?」という気が最近してきた。
世界基準で頑張りたい人は頑張ればいい。
でも心の奥底に刻まれた日本人らしさも消せない。だったら、日本人として、心を大切にして生きてもいいのではないか。

ひょっとすると自分みたいな人は多いのかもしれない。時代の流れに必死に乗ろうと努力するけど
なかなかうまくいかない。

そりゃそうだ。
我々には「武士道」の血が流れているのだから。
この血は、かなり強力な気がする。
島国のDNAはしっかりと受け継がれている。

非常に長くなったが、以上のようなことから
日本人はグローバル化に順応するのが難しい民族なんじゃないか」と思うのである。理由は「武士道」の血が濃いから。

当然すでに多くのグローバル人材が生まれ、世界中で日本人が活躍している。世界で活躍したいと努力している人たちも沢山いる。また日本社会自体が世界基準の価値観に変わりつつある。

ただ私が思うのは、全員がそうなる必要はない、ということだ。
むしろ日本人の精神はしっかり受け継がれているのだから、それに誇りを持ち、日本人の長所を活かして生きてもいいんじゃないか。

画一的に全受け入れで日本の国際化を目指そうとする風潮を感じる。そうではなくて、日本人としての誇りを持ちながら、ほどほどの国際スキルを
身につけ(国家としても個人としても)、あとは日本人としての長所を活かした戦略で世界で生きていく。
そういう道が、みんな幸せなんじゃないか。(ただ移民や外国人観光客に対する受け入れはしっかりやらないといけない。彼らを理解し共存する。日本人らしさを大切にするのと他国排斥は全く違う。)

マジョリティ(欧米)にマイノリティ(日本)が呑まれるのはよくある事だけど
今は多様性の時代が来てるんじゃないのか?
もっと自信もっていい。

幸福度が低い国、日本。
まずは自国に、自分たちに自信と誇りを持つことから始めるのはどうだろうか。
それは私も含め、自戒を込めて、ここに書き記す。


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