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第六十一話 海水浴 The Final ビッグ・ウェンズデー
もくじ 2,718 文字
しかし、これがきっかけになって、バトルが勃発した。
「お前らーっ、上司にこんなことして、ただで済むと思うなよ」
水面に顔を出した久寿彦は、頭にカジメの葉っぱを貼り付けて、バンド時代の風貌が蘇ったかのよう。業務命令だ!、と松浦を指名すると、二人がかりで真一に襲いかかってきた。挟み撃ちにされた真一は、松浦に羽交い締めにされ、久寿彦には両足を持ち上げられて、巻き上がってきた波の前に放り投げられた。分厚い波の切っ先が、ギロチンのごとく迫ってくる。水の断頭台だ。仰向けの体を反転させてかわそうとするも、背中を直撃され、衝撃とともに水の中に引きずり込まれる。そこから先は、宇宙飛行士の訓練のごとく、でたらめに砂底を転がされた。
平衡感覚がおかしくなりつつ、何とか立ち上がったとき、沖合で真帆が捕まっていた。手足をつかまれ、宙吊り状態でわーわー喚いている。松浦と久寿彦が、迫ってきた波に真帆をぶん投げた。大の字の体を波がキャッチし、ぐるんと簀巻きにする。ボディボードに乗っていたら、「エルロロ」 という技になっていたかもしれない。だが、技は成功せず、水の壁に背中を打ち付けただけの真帆は、ひぶっ、と短い悲鳴を残して、波に呑まれていった。
そこから先はメチャクチャだった。西脇が岡崎を突き飛ばし、岡崎は益田を投げ飛ばす。真一は益田と組んで、松浦にツープラトンのバックドロップを食らわせた。体格のいい松浦でも、二対一で挑まれては勝ち目がない。ひっくり返ったところを波に襲われ、海番長は、またもや海の藻屑と化した。復讐心に燃える真帆が、久寿彦の海パンをずり下ろす。半ケツをさらして逃げ回る久寿彦だったが、足がもつれて転倒し、顔面に白波の直撃を食らった。へぶしっ、と北斗の拳の小悪党みたいな叫びが、海上に木霊した。
いつ、誰が、どこから襲ってくるかわからない。互いに相手の挙動を窺い、隙あらば誰もが誰かの標的になった。同盟を結んでも、仲間を信用するのは禁物だ。盟友はすぐに裏切り、襲いかかってくる。プロレスのバトルロイヤルと同じ。ハラハラ、ドキドキの連続で、気が休まるヒマがない。それでも無性におかしくて、笑いが止まらなかった。海から上がったときは、膝に力が入らず、体が鉛のように重たかった。
「あんなことやってたら、いつか溺れるって」
ベンチの下から立ち昇る煙が、微弱な気流に乗って、木柵の先の沼へと傾いている。対岸のアシの茂みでは、相変わらずオオヨシキリの声が喧しい。ウッドデッキ周辺は、さっきより蒸し暑くなった気がするが、蚊取り線香を焚いているおかげで、水辺でも蚊に刺されずに済んでいる。
「アパートに帰って横になったら、鼻からドバドバ水が出てくるのな。いったいどれだけ鼻の中に入ってるんだよ、って思うくらい」
真一は足を組んで、煙草に火をつける。
「しょっぱいから鼻血かと思ったりして」
「あははっ、そうそう」
パチパチと手を叩く音が、人気のないトンボ沼に響き渡る。
「タイムかけてるのに、押してくる奴もいたな」
「あれ、最悪。俺もやられた」
オオヨシキリの声にウシガエルの声が重なった。ヴォーヴォー、と腹に響く重低音。曇り空のためか、今日は日中でも鳴き声が盛んだ。水面にぽつぽつ広がる波紋に気づいて、雨が降ってきたのかと焦ったが、アメンボが作った波紋だった。
「海って飽きないよな」
対岸の空を見上げて、真一はぽつりと言う。波と戯れていると、ついつい時間が経つのを忘れてしまう。一本乗り越えて、次の波を待って、また波を乗り越えて……。ただそれだけなのに、不思議と飽きることがない。何度乗り越えても、次の波を期待している自分がいる。単純かつ終わりのない遊び。繰り返しているうちに、いつの間にか童心に返っている。
万人の万人に対する闘争は、その日一番の大波がやって来て終了した。
沖合に長大な波影を見つけて、ちらっと頭をよぎった。水曜日にやってくるという伝説の大波。昔、テレビかレンタルビデオで見たことがある。
波の名前は、「ビッグ・ウェンズデー」。
確かに、その日は水曜だった。
「ア、ア……」
浜辺の音楽がふっつり途切れ、マイクの調子を確かめる声が入る。
「只今、沖合から大変大きい波が近づいております。ご遊泳中のお客様は、十分ご注意下さい。繰り返し申し上げます、只今……」
今までのものとは明らかに違う波のうねり。
通常の波の倍以上の高さがあるかもしれない。天候が安定した今の時期でも、気まぐれに大きな一発波が入ることがある。いわゆる 「土用波」 だ。黒く翳った波面が、鱗のように細かい光を弾き返している。
一目見て、竜だ、と思った。
万里の波濤を乗り越えて、竜がやって来たのだ。
浜辺にけたたましく鳴り響く笛の音。遊泳中の海水浴客が、一斉に波打ち際のほうへ引き揚げていく。
真一たちのいる位置は微妙だ。沖へ逃げたらいいのか、砂浜側へ逃げたほうがいいのか――。
迷っている間に、沖合で波が崩れた。だらだらと白波が緩い斜面を駆け下っている。
これ以上、考えているヒマはない。真一は、沖へ逃げることにした。
引き波の影響で、腕を掻くと楽に体が進んでくれる。浜側へ逃げていたら、この流れと戦うことになっていた。自分の判断は、正しかったはずだ……そう思うことにする。
やがて、波斜面の白波が消滅した。
代わりに、角度を増した波の本体が迫ってくる。ラムネ色の水の壁の中を、三、四の黒っぽい魚影が横切っていくのが見えた。
「ダメだー、戻れー」
背後で松浦が叫んだ。真一は振り返らない。先頭にいるので、今更引き返しても手遅れだ。このまま前に進むしかない。
分厚い水壁が立ちはだかった。間近で見る波は、一段と凄味を増して、もはや怪物じみている。渾身の力で水を掻き、砂底を蹴る。伸び上がった体が、たわみ始めた波面を駆け上がっていく。見上げた先で、波頭が白く飛沫いた。波の裏側に潮煙が棚引き、バチバチと水の礫が顔を叩く。思った以上に、腰の強い波だ。今までの波と違って、屹立したまま倒れない。
何とか間に合ったようだ。
てっぺんまで上り詰めた真一は、勢いのままに身を翻した。
信じられないくらいの高さから、仲間たちを見下ろしていた。
一心不乱に泳ぐ背中。恐怖で引き攣った顔。
波の上は天国、下は地獄。
天国と地獄は背中合わせ。
真一の一人勝ちだった。
砂浜側へ逃げていく仲間たちに向かって、波の上から両手を挙げて、バンザーイ、と叫んでやった。
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![鈴木正人](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/135962261/profile_e2080e171cde0be390c191db75c5a9b3.jpg?width=600&crop=1:1,smart)