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第七十一話 坂と背負子と蝉しぐれ
もくじ 2,837 文字
「アホ。それができたら苦労しねえよ」
「あっ、開き直りですか。せっかく心配してあげたのに」
「うるせえ。黙って歩け」
真一たちの位置は、ちょうど列の真ん中だ。道を知っている久寿彦が先頭を歩き、その後ろに四谷、やや離れて美汐と美緒が並んで続く。美汐はリュック、美緒は背負子を背負っている。
四谷の荷物は、後ろから見ると塔のようだ。積まれたダンボールや発泡スチロールの箱は五段を数え、重さも七、八十キロくらいありそうだ。使っている背負子はアルミ製ではなく、木製の本格プロ仕様。田舎にいた頃、四谷は親戚の営む山小屋でアルバイトをしていたらしく、歩荷の経験もあるそうだ。去年の夏休みも、里帰りしてずっと山小屋を手伝っていたという。四谷は、荷物の積み方や立ち上がり方、歩き方のコツなどを教えてくれた。じゃんけんには参加せず、率先して重い荷物を背負ってくれたので、皆の負担が減って助かった。
岡崎たちの後ろでは、真帆と葵と夏希が固まって歩き、最後尾には西脇と益田がいる。
夏希は、葵の高校時代の同級生。葵の伝手で店に入った。ショートヘアが似合う小柄で可愛らしい子だ。性格はおとなしめだが、暗いわけではなく、それが彼女の自然体と言うのがふさわしい。人手の少ない時間帯にパートで入り、マスターにありがたがられている。
少しすると、谷側の見通しが良くなった。ただ、海は見えず、谷向かいには、濃緑の山斜面が立ちはだかる。所々、白っぽく見えるのは、カラスザンショウの花だろう。陽当りが良くなり、大型の蝶が目につき始めた。アオスジアゲハ、ナミアゲハ、モンキアゲハ、ジャコウアゲハ……都会で見られる蝶もいれば、あまり見かけない蝶もいる。道端でカラスアゲハが吸水している。人の気配に気づいて飛び立ち、黒い翅がメタリックブルーに輝いた。陽射しの角度によって、青い色が消えたり現れたりする。まるで、夜光虫の明滅する海を見ているようだ。うっかり、海から生まれた蝶なのでは、と思ってしまいそうになる。ひらひらした影に気づいた美緒が指先に止まらせようとしたが、伸びた腕をするりとかわして、谷間の空へ逃れていった。
背後でどっと笑い声が上がった。岡崎たちが歌を歌い出す。嘉門達夫の 「ゆけ ゆけ 川口浩」。「水曜スペシャル」 の人気企画を茶化した歌だ。当時、小学校の低学年だった岡崎たちは、番組を覚えている最後の世代かもしれない。背負子を背負ってこんな道を歩いているうち、かの探検隊の一員になった気がしてしまったのだろう。真夏の照葉樹林は、熱帯のジャングルさながら。「猿人バーゴン」 や 「怪鳥ギャロン」 が潜んでいると言われても違和感がない。
岡崎たちとの距離がやや開き、道が突き当たった所で、久寿彦が足を止めた。
追いついた四谷が、曲がり角の先に体を向ける。
横顔の顎の角度に、嫌な予感を感じたとき、
「げっ、何これ!?」
美汐のリュックが跳ねた。続いて右手の景色を確かめた美緒が、振り返って、真一を気の毒そうな顔で見つめる。
四人の所まで行った真一は、膝から崩折れそうになった。
「マジかよ……」
曲がり角の先で、どーん、と銅鑼の効果音でも聞こえてきそうなほど急な坂道が待ち受けていた。まっすぐな区間だけでもかなり長いが、山の高さからして、カーブの先にもまだ坂が続いているはずだ。
「さあ、こっからが正念場だな」
じゃんけんに勝った久寿彦は、人の不幸を笑うだけの余裕がある。
「こんな難所があるなら、最初から言ってくれよ」
「言ったところで、坂がなくなるわけじゃないだろ」
「もっと真剣にじゃんけんしてたよ」
大きなため息をついて、四谷を見た。四谷の荷物は、真一の倍くらいある。いかに歩荷の経験があるとはいえ、さすがにこの坂を上がるのはきついはずだ。
だが、四谷は、歩き出そうとしない真一たちを不思議そうな目で見つめ、じゃあ、僕が行きます、と坂へ向かった。
危なげない足取りで、坂道を上っていく。重みに耐えている様子はない。歩みのペースも今までと変わらない。
「ロボットみたいだな……」
ぽかんと坂を見上げて、久寿彦がつぶやいた。
大柄な四谷だが、特に筋肉質というわけではない。ただ、骨がやたらと太く、肩や膝の関節は、見るからに頑丈そうだ。車を停めた空き地で、これでも荷物は軽くした方です、と言っていたが、普段はどれくらいの荷物を背負っているのか。一度、仕事風景を見てみたい気がする。
「俺たちも行くか」
久寿彦に促され、真一たちも歩き出す。
道幅が狭いので、坂の入り口で一列になった。久寿彦の後に美汐が続き、美緒、真一の順に坂を上っていく。
「何じゃあ、こりゃあ!」
背後にジーパン刑事みたいな坂戸の叫び声を聞いた。
「うわー、勘弁してくれー」
竹原も悲鳴を上げている。
真一は振り返らない。振り返ったら、重心が後ろに偏ってひっくり返ってしまうだろう。転倒したらケガをするかもしれない。無事だったとしても、荷物をぶちまけて大顰蹙だ。
前傾姿勢を崩さず、一歩前に足を出す。思った以上に、上りはきつい。踏み出すたびに、太ももがはち切れそうになる。四十キロと見積もった荷物の重量は、実際にはもっとあるのではないか。さっきまでは景色を楽しむ余裕もあったが、最初の十歩くらいでそんなものは吹き飛んだ。
前方を見上げると、カーブの先に美緒の背負子が消えようとしていた。気づかぬうちに、かなり差がついてしまった。真一が歩く速度は、前の四人の半分にも満たないかもしれない。道幅が狭くなったぶん、森との距離が近くなった。左右の木叢に、雷鳴のような蝉しぐれが轟いている。警戒心が薄いのか、逃げ場がないほど密集しているのか、そばを通りかかってもセミは逃げようとしない。また少し歩みのペースが落ちた気がする。だが、休むわけにはいかない。セミたちの大合唱を自分への声援だと思って、また一歩前に足を出す。
直線区間の終わりまで来た。カーブの先には、相変わらず坂が続いている。予想していたとはいえ、実際目にすると暗澹たる気持ちになる。
「ぐう……」
無意識に声が漏れた。顔中に汗が噴き出している。顎の先から滴り落ちるしずくが、足元の地面に黒い染みを作っていく。風通しの悪い森の中は、ほとんど蒸し風呂状態だ。道端に咲いたノシランの白い花は、目に涼しくても、火照った体を冷ます効果まではない。
「うおーっ」
やけっぱちの大声が出た。叫ばずにはいられない。何とかして自分を奮い立たせないと、朦朧として膝が落ちそうだ。だが、すぐに叫んだことを後悔する。後続の人間が、驚いて転ばないとも限らない。重い荷物を背負った状態では、ちょっとバランスを崩しただけでも転倒に繋がる。こんなとき、どうすればいいのだろう。山伏みたいに 「六根清浄、お山は晴天」 とでも歌えばいいのか。山歩きのプロの四谷に聞いておけばよかった。
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