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第六十九話 夏の観光地

もくじ 3,450 文字

 短いトンネルを立て続けに何本か抜けると、久しぶりに前方の見晴らしが良くなった。長い下り坂の先には、真夏の陽射しに輝く街が横たわっている。今まで見てきた中で、いちばん大きな街だ。弓なりの海岸線のそばに、リゾートマンションがまとまってそびえ立ち、山の麓まで住宅などがひしめき合う。海と山に囲まれた手狭てぜまな土地では、建物の密集度は都市部とほぼ変わらない。
 商店街に入ってすぐ、道の流れが悪くなった。海水浴場が近いようで、海パン姿で歩道を歩いている人がちらほら。店先に溢れる色とりどりの浮き輪、ビーチボール、ビニールボート……土産物屋や玩具店だけでなく、スーパー、衣料品店、履物屋、薬局、本屋、果ては魚屋と、商店街を構成る店がこぞって取り扱っているため、通り全体が七夕飾りで彩られているようだ。海辺の観光地は、今がいちばん活気づく時期。
 沿道の華やかな景色に見とれていたら、赤信号に引っかかった。カッコーの声が響き渡る中、スポーツバッグを担いだ大勢の若者たちが横断歩道を横切っていく。合宿に来た学生の集団だろう。駅のほうから長い行列が続いているので、電車が到着したばかりに違いない。
「お前らも誰か一人降りて、ここから歩け。そしたら車も涼しくなる」
 かったるそうに歩く若者たちを見て、久寿彦が軽口を叩く。
「芳一、どうだ? いい運動になるぞ」
「ええ!?」
 巨体をビクつかせ、本気でおののく四谷。久寿彦は、わははと笑い、
「冗談だよ。さすがにここから歩くのは酷だよなあ」
 信号機の音声がカッコーからアオゲラに変わり、車が走り出す。
 賑やかな区間を過ぎると、海端に出て、そのまま海岸線を走ることになった。歩道脇の防波堤がしばらく海の景色を隠していたが、白いガードパイプに切り替わると、道のすぐ隣に、砂袋をたくさん積んだ海の家の屋根が見えた。波静かな海水浴場。小さな砂浜を三色パラソルが埋め尽くし、発泡体のブイに囲まれた海面に、ゴムボートやビニールイカダが気持ち良さそうに浮かんでいる。子供を遊ばせるのにちょうどいい海水浴場だ。浮き輪を持った家族連れが、歩道脇の階段から砂浜へ下りていく。
 そこを過ぎると、小ぢんまりした漁港が現れた。道路に面した船揚場ふなあげばに、何艘もの漁船が並ぶ。倉庫の横に積み上げられた蛸壺、物干し竿に吊るされた漁網、ケースに入った黄色い浮子あば……助手席の四谷が、物珍しそうに見つめている。四谷は岡崎と同じ大学に通う学生だが、山国の出身で、海には馴染みがない。生まれて初めて海を見たのが、修学旅行で江ノ島に行ったとき、次に見たのは、大学の友達と潮干狩りに行ったとき。窓の外は見たことのないものだらけで、外国にでも来たような気分なのだろう。
「ねえ、いつまでそれ聴くつもり。ほかのにしてって言ったでしょ」
 漁港を過ぎてトンネルに入ると、美緒がうんざりした声で言った。
「だから、ほかのにしただろ。お前が女のヴォーカルは嫌だって言ったから」
「うるさいのは変わんないわよ」
 車内にかかっているのは、アッシュの 「1977」。うるさいかうるさくないかの二択でいけば、このアルバムもうるさい部類に入るに違いない。
「うるさいくらいでちょうどいいんだよ。静かな曲なんか流したら、眠くなっちまうだろ」
 久寿彦は頑として、CDを取り出そうとしない。お気に入りのアルバムを二枚とも悪く言われて、意固地になってしまったようだ。
 だが、簡単に引き下がる美緒でもない。暑さを我慢した上に、険悪なムードにも耐えなくてはならないのかと思うと、真一は気が重くなった。
「いっそのこと、お前のバンドの曲でもかけたら?」
 半ば自棄やけになって言った。後ろのラゲッジに 「太陰流珠」 のカセットテープがあるのは知っている。
 意外なことに、美緒は反対しなかった。
 むろん、賛成するわけでもない。トンネルの出口を、無言で見つめているだけ。
 本当にいいのだろうか……?
 鼻筋の通った横顔をまじまじと見つめたが、心は読み取れない。
 まあ、この状況を脱することさえできれば、美緒の思惑はどうでもいい。
 体をひねってラゲッジに手を伸ばす。
 と、そのとき、
「そろそろだな」
 久寿彦の声。久寿彦によれば、この先に長いトンネルが四本続く箇所があるが、三本目のトンネルを抜けた先に、ゑしまが磯の入り口があるという。
 少し経って、その入り口が見えてきた。
「あそこだ」
 道端の藪の中に、けばけばしい看板が立っている。紫色のアクリル板が一部欠けているものの、「ベニクラゲ」 というピンクの文字は読み取れる。黄色い 「モータリ」 と 「ホテル」 の間に入る文字は、「スト」 だろう。
「……単なる連れ込み宿じゃない」
 美緒が鼻白んで言った。なかなか味わい深いワードだ。
 矢印に従ってその道に入ると、いきなり急な下り坂が待ち受けていた。狭い道の両側は、雑草が伸び放題。車は洗車機に突っ込まれたみたいに、草を掻き分けながら進んでいく。タイヤがクズの蔓を踏みつけるたびに、ボコボコと音が鳴る。CDの音が飛んで、やっと久寿彦が音楽を止めた。
「ちょっとぉー、こんな道入って大丈夫なの」
 美汐が不安げに言った。草むらの後ろには、昼なお暗い山斜面が迫り、この先に海があるとは思えない。サルやイノシシが出てきそうな雰囲気だ。
 だが、真一はむしろ期待が募った。人の気配がない場所だからこそ、手つかずの自然が残されている可能性が高い。久寿彦曰く、ゑしまが磯は 「秘密の入り江」 だそうだが、その言葉がリアリティーを帯びてくる。
 坂が終わって少しすると、美緒の言う 「連れ込み宿」 が見えてきた。高い塀の上に、点々と急勾配こうばいの赤い屋根が覗いている。大きな建物はなく、ロッジ風のプレハブ小屋が点在するだけ。
「こりゃまた、いわくありげな……」
 真一はしげしげと窓の外を見渡した。「モータリストホテル・ベニクラゲ」 はとっくに廃業済み。カビで黒ずんだ白い塀には、昭和的ないかつい四字熟語 (?) から平成のスプレーアートまで、いたる所に落書きがある。
「だろ? 絶対、何かあったんだぜ」
「痴情のもつれ、みたいな」
「そうそう。昼ドラみたいなやつな」
 入り口の錆びたアーチの前に、車が差し掛かった。イカゲソみたいな強化ビニールの暖簾のれんは、ボロボロにすり切れて、もはや目隠しの役目を果たしていない。奥に見える駐車場のコンクリートも穴だらけで、背の高い雑草があちこち顔を出している。何棟かのプレハブ小屋は、庭木が作る濃い木下闇こしたやみに呑み込まれて、白昼でもおどろおどろしさ満点だ。
「今晩、肝試しに来てみるか?」
「やめてくれ、俺はそういうの苦手なの」
 久寿彦はミラー越しに手を払った。
「そっちの二人は?」
「一人で行って」
 美緒は、すげなく言い放つ。
「絶対イヤ。こんな場所、ムカデとかゲジゲジとかウジャウジャいそうじゃん」
 一方の美汐は、目を剥いて全力で拒絶した。
「何だよ、みんなノリ悪いな」
 真一は、いくばくかの未練を残して廃ホテルを振り返る。
「まあ、新倉イワオでも付き添ってくれるなら、行ってやってもいいけどな」
 フォローのつもりか、久寿彦が言った。
「新倉イワオに霊視はできませんよ」
 だが、四谷に冷静な声で指摘される。確かに、その通り。新倉イワオの肩書きは、あくまで心霊研究家で霊能力者ではない。お供にするなら、宜保愛子だろう。
「痛いとこ、突かれちまった」
 パシッとステアリングをはたく久寿彦。真一はミラー越しの顔を見つめ、
「おっちょこちょいも大概にしないと、憑依されるぜ」
 やがてアスファルトが途切れて、未舗装の道に突入した。いきなり車体が大きく弾み、その後もぐわんぐわんと揺れ続ける。かなりの悪路だ。とっさにアシストグリップをつかむ。隣の美緒も、助手席と運転席の肩口を押さえつけている。
「ちょ、ちょっと……あたっ」
 対応が遅れた美汐は、窓ガラスに頭をぶつけてしまう。ゴン、と大きな音が響いた。
「もう! 乱暴な運転しないでよ」
 赤い顔で文句を言う。
「わははっ、いい音したなあ」
 久寿彦はどこ吹く風だ。前回来たときは、こんな悪路ではなかったらしい。雨が降って、土の路面がえぐれたのではないかとのこと。
 ほどなく、小さな空き地に行き当たった。相変わらず海の気配は感じられないが、ここがゑしまが磯の玄関口だという。


90年代半ばは、ブリットポップの全盛期でした。以下、小説に登場した二組のバンドです。


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鈴木正人
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