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第四十七話 常少女の泉

もくじ 2,972 文字

 坂を下った先の小ぢんまりした駐車場にも、数えるほどしか車は停まっていなかった。公園の山斜面や雑木林に囲まれているため、時計塔広場前の駐車場より、だいぶひっそりした印象だ。アスファルトは劣化が目立ち、駐車枠の白線もげた箇所が多い。
 児童公園の錆びたフェンス伝いに、平石が敷き詰められた歩道を歩いていく。不定休の農産物直売所は、今日は休みのようだ。トタンの店舗のシャッターは下り、普段なら花や野菜の苗でごちゃついているひさしテントの下も、すっきりと見通しがいい。
 レストランは駐車場の斜交はすかいにある。バイトの面接に来たとき、赤く色づいていたアカメの生け垣の色は変わってしまったが、手前のサツキが今は満開だ。わずかにオレンジがかったピンクの帯が、駐車場に車が進入する道とその脇の歩道を区切っている。テラス席の客の話し声は聞こえない。いつになく駐車場が物寂しいのは、普段やっている店が二つとも休みだからだろう。
 ところで、レストランHORAIの 「HORAI」 には、二つの意味がある。
 一つは、「永遠」。
 もう一つは、「一瞬」。
 一つ目の意味は、蓬莱公園の 「蓬莱」 に由来する。「蓬莱」 は、海の彼方にあるとされる、永遠の命が約束された楽土のこと。中国の伝説上の島で、日本にそのイメージが伝わると、「常世」 に重ねて考えられるようになった。「常世」 は日本人にとっての他界、つまり、死者の国だが、「蓬莱」 は、この世のどこかに実在するとされる。
 他方、「HORAI」 は、ギリシャ神話に登場する、季節を司る女神たちの名前でもある。「女神」 ではなく、「女神たち」。つまり、"horai" は複数形。単数形は "hora" で、これは 「時間」 を意味する "hour" の語源になった。
 「HORAI」 に、二つの意味が込められた理由は単純だ。店が固定メニューと、旬の食材を使った季節ごとのメニューを置いているから。つまり、「変わるもの」 と 「変わらないもの」 があるからだ。干支えとに基づく 「旬」 の期間は、甲からまでの十日間だが、長い一年のうちでは、一瞬と捉えることができる。
 直売所の庇テントの下をくぐり抜けると、白と紫のテッセンが絡み付くフェンスが途切れて、水場広場の入り口が開けてくる。草のない裸地の広場に踏み込んで、まず目につくのは、トトロが住処すみかにしていそうな楠の大木。こぶだらけの幹には、紙垂しでの垂れ下がった注連縄しめなわが巻かれ、いかにも 「御神木」 といった感じ。昔、小学校の校庭に生えていたものとは、ずいぶん印象が違う。どっしりとして風格があり、同じ種類の木とは思えない。ただ、シイやカシなどほかの常緑広葉樹に比べて、明るい色合いの葉っぱや樹皮、適度に陽射しを通す樹冠には、優しい雰囲気があって、親しみやすさは変わらない。
 袂に並んだベンチに、座っている人はいない。当然、久寿彦の姿もない。ベンチの前を通り過ぎ、せせらぎに架かる短い橋を渡った。
 森の入り口に立つ石の鳥居を潜ると、広場にも聞こえていた水音が、急に大きくなった。周囲は、頭上まで森の枝葉に覆われて薄暗い。三方に立ちはだかる崖のせいで、空気もひんやりしている。小道の突き当たりには暗い池の水面。清水は池の奥の崖から噴き出している。いわゆる迸出へいしゅつ泉だ。湧水口から丸太をくり抜いたかけいを渡し、池の真ん中の岩を経由させて、御影みかげ石の足場の前に水を落とす仕組み。森の外まで聞こえていた水音は、この仕掛けによるもの。
 水汲み場まで行って、傍らの木棚から柄杓ひしゃくを手に取った。
 透明な水の帯に突っ込むと、金底が勢い良くしぶきを跳ね上げ、手首に水の重みが伝わってきた。
 柄杓を引っこ抜き、合の部分を口に運ぶ。
 水は驚くほど冷たい。湧き水の温度は、年間を通してほぼ一定しているので、冬は温かく、夏は冷たく感じられるのだ。口当たりは柔らかく、澄み切って癖のない味。山深くもない、こんな街中に湧き出していることが信じられないくらいの名水だ。ごくりと飲み下すと、冷たい塊が腹に落ちていった。
 去年、バイトの面接に来たときには、池の周りにたくさんシャガが咲いていた。学名が "iris japonica" なのに原産地は中国という、少し紛らわしい花だ。アヤメの色を画像編集ソフトで反転させたような色遣いで、大きさはアヤメより一回り小さい。
 今はもう花はない。そのせいか、湧水口の脇に置かれた石のほこらが目立つ。いつからそこにあるのか知る由もないが、相当古いものだろう。風化した表面に、苔や地衣類がもっさり貼り付いて、それ一つで、水場全体のかむさびた雰囲気を醸し出している。
 この泉は、由緒ある泉だ。
 その昔、弘法大師が発見したという。
 鳥居の手前に立てられた看板に、こんな話が載っている。

 昔、このあたり一帯は、ひどい日照りに見舞われた。井戸は枯れ、川の水も干上がって、村人たちは、ほとほと困り果てていた。
 秋の夕暮れ、旅の僧侶が通りかかった。僧侶は家々を訪ねて回り、一晩宿を貸して欲しいと頼んだが、戸口に出た人々は、誰もが頼みを断った。なぜなら、僧侶は立派な錫杖しゃくじょうこそ携えていたものの、顔は埃だらけ、袈裟は破れ放題という、みすぼらしい身なりだったからだ。
 ただ、村外れに住む老婆だけは、快く僧侶を受け入れた。
 老婆は、わずかばかりの水と温かい食事を僧侶に与えて、旅の苦労をねぎらった。それから村人たちの非礼を詫び、村の惨状について語った。
 黙って箸を動かしていた僧侶だったが、老婆が語り終えると、一言だけ言った。
 ――明日の朝、山の麓を掘ってみなさい。
 あくる日、老婆が目覚めると、すでに僧侶の姿はなかった。老婆は、言われたことを思い出し、くわを持って山へ出かけた。
 だが、いざ山に辿り着いても、どこを掘ったらよいのかわからない。
 途方に暮れていると、目の前を一羽の鳥が横切って、山腹の岩の上に止まった。鳥は何かを告げるようにさえずり始めた。もしやと思った老婆は、近寄って岩に手をかけた。岩は容易に動き、下から勢い良く水が噴き出した。
 このとき不思議なことが起こった。
 水がかかった手のしわが消えたのだ。
 老婆は、もう一方の手でも水に触れてみた。
 すると、その手の皺も消えた。
 しばらく考えたのち、今度は意を決して、水を飲んでみた。
 すると、曲がっていた腰がたちまちまっすぐになり、白髪も黒く艷やかになった。
 別人のようになった老婆を見て、村人たちは仰天した。話を聞いた彼らも水を飲んでみたが、誰一人として若返ることはなかった。ただ、水が湧き出したことにより、村は窮地から救われた。
 その後、老婆は、百八十年の間に渡って、娘の姿を保ち続けた。しかし、ある朝、知り合いが家を訪ねてみたら、床の上で眠るように息を引き取っていたという。遺体はいつまでも温かく、不思議な芳香を放っていた。ただ、脈が戻ることはなく、村人たちは仕方なく彼女を埋葬した。
 泉は彼女にちなんで、「常少女とこおとめの泉」 と名付けられた。

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鈴木正人
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