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偏向こそ認識 〜仏教の空の思想〜

人の認識とは偏向です。
モノに名を付けて呼ぶのも広義の偏向ですし、特徴的なものがあればそのことが『名前』にもなります。

偏見、つまり非好意的な偏向は悪とされ、今の世の中では戒められます。ポリコレだ多様性だと最近はうるさいですが、そもそもなぜそんな事を今更及第しているのかといえば、人間は中庸な認識というのが得意ではないからです。というか、中庸な認識というものはこの世において存在するのかという問題もあります。

例えば「黒人」というこの言葉でさえも差別用語として禁止されようとしています。でも、見た目からして区別する言葉がないのは不自然ですし、彼ら独自の文化や個性もあるはず。と、この事象自体も人間が中庸な認識を苦手としていることの証左たり得るでしょう。

僕は仏教は部外者で、豊富な知識がある方には大変畏れ多いですが、
仏教にある『空』の思想がとても面白いです。

仏教における空とは、一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと。空は仏教全般に通じる基本的な教理である。

Wikipedia「空(仏教)」より

ウィキは全然説明になってませんが、あくまで僕の知識で話します。


例えば私たち人間は、莫大な数の細胞によって構成されています。しかし、その細胞もさらに細分化していくと「分子・陽子・中性子」となり、これをさらに分解……と繰り返すと、それは果たして何になるのでしょう。人間の実態は細胞の集合体であり、細胞の実態は分子などであり……。ならば、「人間」というものにはそもそも実態など無く、存在しないのではないか。フューという人間がここに居たとして、どこまでがフューでどこからがフューじゃないのか。フューと呼ばれるヒトの分子はフューの本体・本質なのか。人間といえど細胞は入れ替わり続けるし、そこに真の実態があると果たして証明できるのか。これらの問いに「否」とし、存在をそもそも非ざるものとするのが「空」です。人間のみならず、あらゆる動植物、物質、現象などに対しても適用されます。
このことは言い換えれば「絶対性」はこの世界に存在せず、あくまで全てのものが「相対的」であり、因果を伴う、という事でもあります。相対的に我々は人を人間だと理解し、犬を犬と理解し、コップをコップと理解する。あくまで絶対的な認識は存在しない。全ては本来存在しないが、相対的に我々は認識し得ているに過ぎない。



当然ですが、僕の説明は「空」の全てのニュアンスや考え方を包括できるような大それたものではないので、そこはご容赦ください。何なら間違ってる可能性もあるので…。仏教は難しいです。

この「空」こそ、ポリコレ多様性にうるさい現代に求める答えではないでしょうか。

しかし、この「空」を紀元前の時代に思い至った釈迦や、その土壌となったウパニシャッド哲学などのその凄さといったらありません。紀元前6世紀のブッディストと今のポリコレ支持者の討論を見てみたいものです。人は時代を重ねても進化するとは限らないと、つくづく思います。

話を戻すと、空にもあるように我々の認識とは常に相対的だと思うんです。絶対的で中庸な認識が存在し得るのかといえば、まず難しい。認識をアップデートし続け、偏向を是正していくことによって、偏向から少しづつ脱却していくことが可能になるのだと思います。

偏向という語を聞くと、最近のマスコミ叩きが連想されますが、偏向的でない報道も存在するのかという話になります。結局マスコミも実態は人間であり、その認識に基づく報道がされているはずです。むしろマスコミを叩く際に「偏向的だから」という理由よりは「恣意的だから」という理由の方が妥当性はあると思うのです。自分たちに都合の良いストーリーを作りたいというのは偏向的である以前の話です。


しかし、我々は常に相対的で偏向的な認識がベースにあるのだということは自覚するべきことだと思います。今の時代にある黒人を擁護する流れというのも偏向ですし、LGBTQ+αなどが持ち上げられているのも当たり前ですが偏向です。彼らのことを中庸に認識できているかといえば、実際できてはない。ニュースだってそもそも人が作る時点で偏向ですし、芸術も偏向的認識から生まれるものだと思います。
全ては偏っている。それが我々に映る世界なのだ。それを脱却するということは、人を脱却することにすなわち等しい。

絶対性をとくアーメンの世界がどう考えても正しい訳ないだろ、と思うのは僕の偏向ですが。でもきっと彼らの偏向も尊重することが大事なんでしょうね。

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