見出し画像

創作に就いて

 創作を遣る人間でも、其の方法の異なるは云わずとも知れて居るだらうが、私は、創作の方法を二分して考える。一つは実体験を通して経験と云ふ処迄己の内で成熟したものを表現する道程を指すか、さうでは無ければ、追体験を通して、何処迄も他者として、詰り、私の中に追体験を経験として語る他者を住まわせるやうな心地で、表現する際には、其の他者から語られる処のものを表現する道程を指して此れを創作と云ふか、極端に云えば此の二つである。
 私は、第一の方法を好むと云ふより、だうも其れしか出来ぬ人間である。第二の方は何度試みても駄目である。何度遣らうが中途で他者を踏み潰してしまふ、踏み潰して、他者の経験、云わば追体験を乗っ取ると云ふのではなく、云わば継ぎ接ぎを遣るやうな形で、潰した地点から私の物語を書いてしまふ。私の創作が向かう方向は、私の生である、詰り私の生きた経験である。其処では他者は、私に語られる者達である、他者達である、其処での私は、厳密に云えば私自身でしか有り得ぬ、丁度藤村が「新生」や「家」、「春」を書くやうなもので、作品ごとに主役は異なれど、物語を経る毎に其れが私であると云ふ事が明かされるのである。藤村は、思い出すと云ふ形式を取る、主役は何遍も何遍も思い出す、其の思い出すものと云ふのは藤村の生に蓄積されし経験である。私は端から其れを真似た訳では無い、藤村を読みて初めて、成る程此れは私の形式だと気付き得たのである。
 私の創作する処のものと云ふのは、私を超越せぬ。物語上定めたテエマに基き、此れに見合ふやうな私の経験を表現した総体である。故にテエマが大事である、私は一大テエマを有して居る。其れは生である。ディルタイの云ふ、生と解釈されて宜しいが、私は其の生に基づいて、此れを高める愛や美や善をテエマとする。何も死や醜さや悪を拒絶すると云ふのではない、其れ等を生の側から了解した物を書くのである。其の了解されたものが私の経験として有るから書けるのである。
 死は他者の死からしか学べぬ、だのにだうして皆死なるものをまるで私事のやうに描くのであらう、他者の死は私達生きる者にとっては、常に過ぎ去る出来事である。私事で恐縮であるが、ほんの四年の内に愛する人間を三人も失った経験の有るから好く其れが判る、平生が必ず我々を捕まえに遣って来る、愛する人間を失った者の肩を掴むは其の平生である、詰り彼自身の生である、人生である。我々生きる者はだうしたって生きねば成らぬ、此れは真である、大事な人を失った人間は現に生きて居る人間でも有る、故に其の後も生きねば成らぬ、通過せねば成らぬ。創作で他者を死を書く時、物語で死を取り扱かふ時、其れは成るべく淡泊に書くべきであると私は思ふ、生の側から、死を通過せし人間を描写すべきである、其の方が余程現実的に死を描く事が出来ると思ふ。其れも他者の死を、である。
 私は昨晩の私の願いをだうにか叶える事が出来た。創作に就いては、未だ未だ言い足らぬ感が有るが、だうも回り道ばかりするから、折角読まれる方々の溜息を誘ふよりは、この辺で切り上げるが無難であると思ふ。
ではまた。
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?