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映画WILLを観た話
先日、東出昌大さん出演の映画「WILL」を観てきました。
私が東出さんを認識したのは、当時購読していたメンズノンノの専属モデルオーディションが誌内でも取り上げられているときだ。
同性ながら、吸い込まれるような瞳に言葉を失っていた記憶がある。
認識はしたものの雑誌モデルの一人でしかなく、それ以上でも以下でもなかったが、少ししてテレビでも活躍が目立つようになっていた。
そしていつの間にか俳優になっていた。
その後、結婚されても離婚されても、特に気に留めることはなかったけれど、最近YouTube等でワイルドな姿を見かけるようになって、彼に都会的な印象を勝手に持っていた私は、急に彼が気になり始め近づいていった。
今まで彼に対しては受動的に集まった情報しかなく、待っている情報には、その側面しか表すことはなかった。
どちらかと言うと彼にとってネガディブな印象しか与えない情報
容姿に恵まれた彼に、世間はマイナスの印象を求めるのか。誰もが持っているはずの生々しい部分をわざわざ炙り出したいのか。
とにかく、東出さんが過去の騒動から立ち直り、何か自分の中で前向きな線で繋げられているのであれば、その線に触れたくて映画館に足を運んだ。
上映時間2時間半弱の長編ドキュメンタリーに少し不安を抱いたが、あっという間であった。
東出さんは真剣に生きることと向き合っていた。
その向き合い方は、凄く生々しいもので、私のボキャブラリーでは表現しきれないが、人間の汚い部分も含めて、地球生物としての構造の一部でありながら、争い続ける執着も受け止めて、苦しんでいるものだった。
もちろん苦しいばかりではなく、生きる場所を見つけた晴れ晴れしさもあった。
東出さんの生き方を観て、自分だって同じなのに自分は綺麗に生きていると誤解していることが恥ずかしくなった。
人間には感情がある。
動物を殺すことは可哀想だと思う。殺すのを躊躇う。
酷いことだと分かりつつ、狩猟採集時代は生き残るために必死で殺した。
まさに食うか食われるか。
それが定住して、農耕民族となり、家畜を飼い、分業制となり、命をいただく感覚から遠ざかっていった。蓋をできるようになった。
今でも、農村で暮らす人々は、田畑を荒らす野獣を躊躇なく殺す。農作物を食べられては、生きる糧を失うからだ。
けど、命をいただく感覚から遠ざかった私は可哀想だと感じる。感じることがダメなわけではない。
ただ、レイヤーが違うだけで感覚や印象が変化することを忘れてはならない。
これは、命をいただく動物たちにも言える。
殺されることを人と同じ認識でいるとは思えない。殺すこともそう。
多くの根底には「生きたいという生への執着」が関係しているのではないか。
あらゆる執着を捨てたい。
その方が生きるのが楽になるのではないかと私は思っている。
どこまで執着を捨てても、生への執着はおそらく捨てることができない。
ただ、その執着を持って生きるということは、他の生き物の命をいただくように、犠牲を強いることを忘れてはならない。
抽象的でまとまりのない話になってしまったが、答えのない問いをぐるぐる考えるのは好きだ。
今日もいい1日