読書感想【差別と教育と私】
まず、そもそも「同和問題」「部落問題」とは何のことなのか、恥ずかしながら私は知らなかった。
本書でも最後の方に記されてくるが、時代の流れ・変化に伴って、こういった事を後世に繋いでいく教育と言うモノは、限られた教職者が個別で引き継いでいくものとなってしまっているのだろうか。
私が初めて「同和」という単語を聞いたのは社会人になってから、社内で行われた「人権研修」であった。その時に上司の指示の下、10名ほどの課のメンバーでいわゆる「差別」という問題を話し合ったのであった。
今思い返せば「差別は良くない」というただそれだけの内容に終始しており、本書でも最後の方に出てくる、「差別がそもそも起こってしまった背景を知る」という本質的な議論にはならなかったように記憶している。既に時間が経っているからか、面倒な研修に時間を割きたくなかったのか、今ではわからないが、非常に表面的な話をしてその時は終わったような気がする。
自身の勉強の為にもこの作品に手を出した。この問題に関する沢山の事件を紹介しながら、「教育とは」という一点を語っているように私は感じた。
読み進めるいく序盤の段階で、この「差別」という概念がよく理解できなかった。出身や血筋といった、言ってしまえば当の本人からすればどうしようもないことに対して「差別」をする、というようなそんな大昔に行われていた士農工商穢多非人のようなことがごく最近、それこそ20年ほど位前まで(今も表面化してないだけかもしれないが)存在をしていたということが信じられなかった。よく分からず、想像ができないと言った方が正しいのかもしれない。
疑問はシンプルに一つ。「なぜ差別をするのだろうか?」という一点である。これはだいぶ平和ボケした考え方なのかもしれない。自分がそんなことも考える必要もなく生きてきた、そんな環境にいた結果なのかもしれない。ただ、それでも、シンプルに「人が嫌がることをなぜするのか?」というそれ一つに落ち着くのだ。
また、教育に関して、下らない人事権の掌握を狙った小競り合いと言うのが、この問題にも多少なりとも影響を及ぼしていることを悲しく思った。結局、組織に属する人というのは、全体の利益、後々の利益、というものを大局観的に見ることができなくなってしまうのだろうか。これはこの問題に限らず、最終的なゴールをどこに置くのか?誰にとってのゴールなのか?ということに関する決定は人間が苦手としているとつくづく思う。
誰もが自分の想いを胸に教育に携わり、問題の解決に尽力する一方で、実際に問題の中心である路地出身の人々がこの問題の解決に対する取り組みに関して、全てを賛成的に受け止めているわけでは無いことも知った。よくよく考えてみれば当たり前のことであるが、実際の問題や現地のことを知らない人々がそれらを無視して話を進めるというのは良くある話だ。(こういう話を良くある話だと思ってしまうあたり、少し悲しい)
加えて、誰もが自分の全てを他人に開示したいと思うわけでは無い。歩み寄るために大事なイベントだとしても、難しさは十分にあっただろう。
立場によって、時代によって、教育は移ろいで行くものであるということを強く認識できる一冊。もちろん、日本人として知っておくべき、「同和問題」に関しても丁寧に学ぶことができる一冊。当時の雰囲気というか、流れと言うものを感じることができた。
著者 上原義広
発行 平成26年3月
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