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それ、逆の場合でも言える?
なんかこう、妊娠した記念というか産休取るお礼というか、赤ちゃんの絵を描いたクッキーを配ったって言ったら大炎上ってネタで、あれこれ見ていたのだけど、なんかこう「配慮」ってものが「してもらう」と言う視点でしか描けない人がいるんだよなと思った。
妊娠できない人への配慮が過度に求められるとしたら、病気で旅行できない人とか、体質的に酒が飲めない人とか、障害で働けない人とか、抗癌剤で髪の毛がない人とか、生まれつき性が不一致だから好きな服を着られないとか、身体が弱くて運動できない人とか、宗教的に豚肉が食えない人とか、頭が弱くて計算が出来ないとか、顔が悪くて結婚できないとか、性格が悪くて人から好かれないとか。
そういう全てのことに配慮を求められた時、あなたは完璧に人の心を逆なでにしないでいられるのか?
被害者になる恐怖は持つのに、加害者になる恐怖がない人間というのはかなり危うい。
成熟した人間というのは、自分が不快と思ったことでも、その場の状況を察して、なんでもかんでも不快だとは騒がない。
特に人の祝い事の時でも、そういう感情を抑えて「おめでとう」と言うものなんだよ。
全てを我慢しろという話ではないが、そういう時に我慢するというのも一つの「配慮」なんだよ。
なんで自分は常に配慮される側だと言う認識でいられるのか?
なんで逆の立場になった時のことを考えられないのか。
これは憲法九条の話だってそうだ。
まぁ、憲法九条論者が一条を馬鹿にしたり、十一条から十四条をすっかり忘れたり、十九条から二十一条を踏みにじったりすることはあるけれど、それはそれとして。
「平和憲法のある日本を攻撃したら、世界中からその国は袋だたきになるから」
と言う理屈を立てる人がいるが、じゃぁ、ウクライナが平和憲法を持っていて武装を放棄していたら、日本の自衛隊がウクライナを守るために派兵することに同意するのか? 或いは、自分が義勇兵として立ち上がるのか?
チベットやウイグルへの迫害に対して、日本人の立場として中国を批判したのか?
何故自分が「責任を持つ」側の立場として考えないのだろうか?
自分自身を守る意思のない人間に対して、貴方はどう思うのだろうか?
部屋の鍵を掛けない人が、強盗に襲われたときに、「殊勝な心がけなので助けよう」となるのだろうか? 何故、自分が助けられる時にだけ、世間が自分に対して恩恵を与えると言う発想になるのだろうか?
一般的に言って、国際協力は平等な関係なのだから、自分が襲われたときには相手が助けてくれると言うのと同時に、相手が襲われた時は自分も助ける責任が生まれるのだ。
それこそが平等な関係であり、そのベースを理解した上で、じゃぁ、その内容は本当に平等なのか? と問いかけるのが日米安保の問題なのだ。
それも分からずに、武装解除しろ、非武装中立にしろ、米軍は出て行けと言うのだから、そんなのはガキの我が儘と同じだ。
子供は何をしたところで親の子供だから、親はお菓子もおもちゃも買ってあげるだろう。そこに対等な関係はないし、同時に見返りもない。
だけれど、大人になれば、そんな事も言っていられないだろう。
常に責任と義務を果たすために働き、社会貢献をし、社会から逸脱しないように細心の注意を払う。そしてその対価を稼いで生きているし、相手に対価を払い何かをして貰ったりものを買ったりしているのだ。
自分が払う側の人間になれば、払われる側の人間にもなる。それが社会だ。
勿論、自分が愛する人と結婚し、子供を産んだともなれば、無条件の愛と言うことも生まれるだろう。だが、それは特別な関係であり、社会の中では特別な状態にしか成立しない。
それとも、日本がアメリカ、或いは中国の属国として、自由を奪われることの方がお気に入りなのだろうか? その時、相手は自分だけを特別にお目こぼししてくれるのだろうか? その根拠は?
じゃぁ、日本とアメリカ、日本と中国、日本と韓国、日本と北朝鮮、日本とロシア、そして日本と世界と言う関係の中で、その特別な状態が成立するだろうか? 成立するとしたら、それはいかなる理由で、いかなる条件だろうか? きちんと相手の立場を考えた上で、対等になっているだろうか?
それも説明しないのに、「日本は九条があるから、自分たちが手を下さなくても国際社会がやっつけてくれる」と言う話にするから頭が悪いのだ。
そもそも国際社会とは何だろうか? 具体的にどの国とどの国だろうか?
それは「欧米では」とか「世界では」と言う出羽守が、近頃具体的な国名を挙げないのと同じだ。
彼らの言う国際社会は、自分の中の幻想の中にある便利な存在でしかない。
国際社会と日本と言う時に、そればまるで別々な存在のように語るけれど、他国からすれば日本も国際社会の中の一つなのだ。
そうであるならば、日本は日本としての責任を果たせるのか? と言う話になる。
勿論、それから逃れるために中立国を謳うのもいいだろう。
だが、その時、自分を守るのは自分の舌と腕っ節だけなのだ。
誰も守ってくれないし、守る力のないものは、より強力な暴力に制圧されるのは世の中、ずっと繰り返された歴史なのだ。
こういう構造は、他の場面でも散々見かける。
ハングルを目にすると腹を立てる自称愛国者が、韓国の地下鉄に日本語の表記があるのに言及したところを見たことはないし、外国人の行儀の悪さを笑う日本人が、日本人が海外でやったやらかしに言及しないとか。
右翼でも左翼でも、或いはカルトじみた連中も、何かの運動家も、政治的に尖ってくると、自分の立場でしかものを考えられない。
控えめに言って、それは幼い人間の発想だ。
もう少し広い視野で考えられないだろうか?
※挿絵はDALL·Eを用いています。