■『魔女姫と黒き翼の王子』前編
昔から平凡だった。
そのクセ、昔から人との縁には恵まれなかった。
昔からお人好しと言われ、なんとなく人からはコキ使われて、それでもなんとなく生きていた。
そんなふうにダラダラと生きてきた人生の中でも割と最悪なことがあった日、やけ酒して酔っ払って、挙げ句に迷い込んだ住宅街の片隅で古ぼけた小さな店を見つけた。
普段なら気にもとめないような古い店構えだが、俺はほんのりと漏れる明かりに惹かれ吸い込まれるようにして中に入っていく。
「いらっしゃいませ」
妙に若い女性の声が店の奥に鎮座するカウンターから聞こえてくる。
店内が薄暗く、声の主の姿かたちはわからない。
店の中は古ぼけた見てくれの通り、そんなに広くはない。
ところ狭しと並んでいるのは、やはりどことなく古ぼけた雑貨や食器、よくわからない置物や古い装丁の本に古い絵本や絵画集まで様々だ。
酔いで回らない頭で、ぼんやりと陳列されている物品を眺めていく。
「なにかお探しですか?」
いつの間にか、小柄な少女がはにかみながら俺を見上げていた。
金髪にも見える薄い茶髪に白い肌。何より、青く大きな目は日本人とは違う国の出身のように見える。
「え……っと……」
「お探しの物がありましたら、遠慮なくお声掛けくださいませ」
流暢な日本語を操る外国人の少女は小さく一礼すると、奥のカウンターに引っ込んだ。
後々考えてみればもう終電もとっくに過ぎた時間なのに、店が開いていて中学生か高校生くらいの年若い女の子が働いているなんておかしなことのはずだ。
だけど酔っ払っているもんだからそんなことにも気づかずに、俺は店内をウロウロとしていた。
ふと、カウンターのそばにある古本のコーナーで、ひと際目を引く装丁の本を見つける。
真っ黒な背表紙に金の箔押しで外国語のタイトルが書かれたその本を本棚からひっぱりだしてページを開く。
どこかの国の児童書かなにかを和訳したのだろうか。
漢字は少なく、学のない俺でも読めるその児童書は不自然な箇所がいくつもあった。
王子と書かれた文字の隣は必ず空白があり、挿絵には可憐で、それでいて勇敢で、とても可愛らしい少女が描かれ、その隣は必ず不自然な空白が存在している。
俺は不思議な印刷ミスのある本をカウンターに持っていく。
「店員さん。この本……」
「その本は『魔女姫と黒き翼の王子』という、とある偉大な魔法使いが愛娘のために書き上げた世界に一冊しかないとても珍しい童話なんですの」
「黒き翼の、王子?」
店員さんがタイトルを読み上げる。その言葉に、俺は何故か心臓をギュッと掴まれたような感覚に陥った。
「その本、王子の名前と挿絵の王子が白抜きされていますでしょう?」
「あ、ああそうだ。それが気になって……なんでこんな、印刷ミスした本なんか……」
「印刷ミスではございません。完成した当初はちゃあんと、王子のお名前とお姿が描かれていました」
「誰かがいたずらしたってことか?」
ぱらぱらとページをめくっていく。どのページにも王子の名前と姿だけがなく、印刷ミスでは片付けられなそうな雰囲気がある。
「この本は魔女姫と呼ばれる魔法の力を持った少女と、とある大国の王子が力を合わせて悪い神を討伐し、世界に平和をもたらすお話です」
少女は訝しむ俺をよそに、本の解説らしき言葉を並べ立てる。
「その本は作者の娘や孫やその子供のまた子供……長い間何度も何度も繰り返し読まれて受け継がれていきました」
少女の言葉を聞きながら挿絵のあるページを開いていく。
「繰り返される物語。繰り返されるハッピーエンド。でもそれは、魔女姫と王子とその世界だけのもの。討たれるべき悪神は何度繰り返しても野望を叶えるには至らずにいたのです」
そりゃそうだ。読むたびに話の内容が変わるなんて、いくつものルートがあるゲームならまだしもというところだろう。それだって予め入れられているデータを再生するだけのものだ。
物語は一度世にでてしまえばどんな事があってもその通りにしか進まない。
少女の言葉に俺はうなずくしかなかった。
「ですが……この本を書き上げた作者は偉大な魔法使い。物語の登場人物にもその力が宿ってしまったのでしょうね」
「え?」
突然話が胡散臭くなる。
「物語を繰り返すうちにどうあっても魔女姫と王子に勝てないと思った悪神は、王子様をどこか別の世界に飛ばしてしまいました」
「そんな馬鹿な話あるはずがないだろう?」
いくら俺が凡人で人よりも頭が悪かったとしても、それが少女の空想だということくらいはわかる。
「なんて。そんな触れ込みでお買い上げいただいたご家庭のお子様の名前を書いて、物語の主人公となって楽しむ。そういった趣向の童話なんですのよ」
「な、なんだ。そういうことなら早く言ってくれよ」
「申し訳ございません。お客様がこの本にご興味がありそうでしたのでつい」
まんまと一杯食わされたような気分がしたが、自分の名前を書いて物語の登場人物になりきるというのは大の大人がやるには気恥ずかしいがそう悪くない発想のようにも思える。
「よし、この本買った」
「はい。お買い上げありがとうございます」
少女は薄く笑顔を浮かべて本を丁寧に包んでくれたのだった。
本をお買い上げして意気揚々と店を出た、と思ったのも束の間。
「あれ……?」
俺はいつも寝泊まりしている駅前のネットカフェの個室に本を抱えた状態で寝転がっていた。
いつの間に戻ってきていたのやら、酔っ払っていたせいでさっぱりわからない。
「はぁ……」
酔った勢いで余計な買い物をしてしまった。そう思いながらPCの時計を見れば、次の仕事の時間までまだ時間がある。
俺は、ペンを取り出すと買ったばかりの本のページをめくると、空白の欄を探して名前を書き始める。
せっかく買ったのだから楽しもう。
お世辞にもきれいとは言えない字で名前を書き込んでいく。
―
――
―――
「マサル王子!」
誰かに鋭く名前を呼ばれた。
はっとなって目を覚ます。俺はどうやらベッドの上に横たわっているようだ。
消毒液の臭いを感じると同時に体中、特に頭にひどい痛みが走る。
「き、みは……」
美しい薔薇色の瞳に涙をたたえた少女が、俺の手を包み込んでいる。
女の子には過酷な辛い旅でも泣き言ひとつ言わず一緒に冒険してくれる頼もしくも愛らしい彼女が、俺のために泣いていた。
「よかった。このまま目が覚めなかったらどうしようかと……」
「ここは?」
「トゥーラウの治療院よ。お医者様を呼んでくるわね!」
「あっ、走るとあぶな……」
少女は涙を拭うと部屋の扉を開けてどこかへと走って行こうとして、躓いて盛大に転げてしまう。
うっかりとパニエの隙間からレースの下着がちょっと見えてしまったのは事故だ。
「はうう」
「レギナ姫は相変わらずお転婆ですのう」
レギナと呼ばれた少女が盛大にころんだ音を聞いて、老齢の医者が部屋に姿を見せる。
「先生~~~。マサル王子が~~~」
「おお。マサル王子。お目覚めになられましたか!」
医者はしわくちゃの顔をほころばせ、俺の体のあちこちを触診し始める。
「どれどれ。マサル王子、お加減はいかがですかな?」
「大丈夫? どこか痛むところはない?」
「ええっと……?」
ずきり頭が痛む。おれ、俺は……たしか、買った本の空欄に名前を買いて、それで。
それで、どうしたんだっけ。なんで王子なんて呼ばれてるんだろう。それにこの人たちは……
「あの、あなた達は一体、だれ、ですか?」
薔薇色の瞳が大きく見開かれる。ほろりほろりと、水晶のようにきらめく涙がまろい頬を伝って床に落ちていく。
あぁなんて悲しそうな顔をするんだろう。
ごめん、ごめんね。
君にそんな顔をさせるつもりじゃなかったのに。
せっかく戻ってこれたのに、何も思い出せない。
ごめん。ごめんなさい。許してください。どうか。どうか。
頭が痛い。心が痛い。
何もわからないはずなのに、心の奥底でずっと誰かが謝る声がしていた。
「続く」