
【嫌われる勇気】誤解されがちな他者信頼
はじめに
「嫌われる勇気」では、他者信頼という単語が、無条件に他者を信じるという意味で出てきます。
しかし、僕は今まで2回も他者信頼の意味を誤解していました。
他者信頼の定義について、10時間以上考えたので、読んだ人の役に立てればうれしいです。
他者信頼は自己受容、他者貢献と並んでアドラー心理学の根幹をなす概念ですから、この理解を避けて通ることはできません。
そんな他者信頼ですが、本の中では、かなりふわっとした説明で終わっていて、僕はなかなか理解することができませんでした。
僕がつまずいたポイントは、他者信頼では、他者の何を信じているのかです。
この記事では、他者信頼として不適切な例を挙げながら、他者信頼の対象について考察していきます。
不適切な例1 他者が正しい選択をすることを信じる
この例が不適切である理由は、この場合の「正しい選択」というのが「私の期待」であるからです。
信じる対象が他者の行動になってしまった時点で、操作と評価の意識が働きます。いかなる時でも、私たちが見つめるべきは、ありのままのその人です。
また、絶対的な正しさなどこの世にないのだから、何を信じようと自分の主観にもとづくものにすぎない。よって他者の行動の正しさを議論すること自体が無意味だ、という見方もあります。
「正しい選択」=「その人が最善だと思う行動」だと解釈した場合でも、私の目的によってその人の行動はどのようにでも解釈できるのですから、すべての人が自立していることを無条件で信じる、といった妙なことになります。
そもそも、「最善の行動をとれているか?」という問いは、自分に向かってのみ投げかけられるべきであり、矛先が他者に向くと、この問いは他者の課題への介入になってしまいます。
不適切な例2 他者の発言をそのまま信じる
信じることは、なんでも鵜呑みにすることではありません。その人の思想信条について、あるいはその人の語る言葉について、疑いの目を向けること。いったん留保して自分なりに考えること。これらは何ら悪いことではないし、大切な作業です。その上でなすべきは、たとえその人が嘘を語っていたとしても、嘘をついてしまうその人ごと信じることです。
このように幸せになる勇気では述べられています。
僕は当初、信頼とは、どれだけ疑わしくてもとりあえずは信じてみること、だと思っていました。
それからこの文に出会い、間違いに気づかされたのですが、結局のところ信頼の対象とは何なんでしょうか?
行動でも、情報でも、約束でもない。
じゃあ何なんだよ!!と叫びたくなると思うので、結論に行きます。
結論
たくさん仮説を立て、考察した結果、他者信頼とは、無条件で他者を仲間だとみなすことであるという結論に至りました。
それって対象なの?と突っ込みたくなる気持ちもわかりますが、順に説明します。
条件について
まず、「無条件」という部分から、信頼とはどのような人間にも平等に向けられるものである、ということがわかります。
友達なら信頼できるけど、初対面の人はちょっと…、ということはあり得ません。なぜなら、仲がいい、相手を理解している、というのも一つの条件だからです。
真に無条件であることとは、犯罪者であっても、赤ん坊であっても関係ないということです。
なので、他者信頼の根底に流れるのは、人間そのものへの信頼であるともいえます。
※無条件の定義を拡張すれば人間以外にも適用できそうですが、今回はやりません。
対象について
次に、核心である、他者信頼の対象について考えます。
他者信頼の本質とは、共同体感覚から逆算できるんです。
他者信頼、自己受容、他者貢献ができた状態=アドラー心理学における理想の状態ですから、他者信頼がどのような部分を担っているのか考えればおのずと結論が見えてくる、というわけです。
それでは、アドラー心理学の目標について思い出してみましょう。
行動面の目標は、
1.自立すること
2.社会と調和して暮らせること
それを支える心理面の目標は、
1.私には能力がある、という意識
2.人々は私の仲間である、という意識
このうち、自立することと私には能力があるという意識は自己受容に関する目標でした。
そして、社会と調和して暮らせることと、人々は私の仲間であるという意識は他者信頼と他者貢献に関する目標です。
ここで、他者貢献と他者信頼のどちらが共同体感覚に結びついているか考えてみてください。
他者貢献とは、貢献感によって自らの価値を実感するために行われることなので、共同体感覚の先にあることがわかります。
以上を踏まえると、共同体感覚と他者信頼は不可分であるといえますね。
そして、他者信頼とは、無条件で他者を仲間だとみなすこと、と定義すれば、無限の範囲の共同体に所属感を感じられることになり、共同体感覚の定義とも合致します。
まとめ
納得できましたか?
僕は疑ってかからないと気が済まないので、試しに「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」のすべての「信頼」の部分に今回の定義をぶち込んでみました。
その結果、矛盾が見つからなかったので、現在はこの定義を使っています。
見ての通り、僕は理論を矛盾のないものにすることが生きがいなので、おかしい点があったり、僕はそうは思わない、という点があったりしたらコメントで指摘してくださるとうれしいです。
誤解を指摘した僕の方が誤解している、という可能性も十二分にあるので。