見出し画像

禍福はあざなえる縄の如し?

 昨日は鍼灸を受けたせいで急激に眠くなり、安楽椅子でぐっすりと寝てしまった。深夜に起きてお風呂に入ったりしていたら、もう朝なので、二度寝はやめた。
 自宅から日の出と奥多摩や丹沢の山並みを見る。残念ながら、日の出は雲に隠れてしまっていた。早起きは三文の徳とは、その通りだと思う。今日の私の場合、早起きとは言えないけれど。

 これまでの人生で、毎朝、早起きできないことで、私の損はずいぶんかさんでいるのだろう。早起きして、朝のすがすがしい景色を目にしただけで、今日一日がきっとよいものになる、という気がする。時間があったので、昨日はギリギリに起きたせいでやれなかったヨガを30分やり、朝から自己肯定感に包まれる。

 と、ここまではいい気分で過ごしていたのだが、管理職に海外旅行の届け出をしたところ、ある1日を入れた計画のため、許可できないと言われてしまった。慶弔の休暇の場合は、その1日が入っていても許可された人を知っていたため、大丈夫と思った私が甘かった。事前に管理職に打診してからチケットを取ればよかったのに、既に航空券を購入してしまい、キャンセルしてもほんの一部しか戻って来ない。ショックではあるが、私にも落ち度があるし、そこまで値段の張らないアジア行きだったので、諦めることにした。

 落ち込んでいたら、一緒にスペイン旅行をしたことのある従姉妹からショートメールで連絡が来た。ガンで緩和ケア病棟に入院している親戚が会いたいと電話をかけたようだけれど、会いに来てもらえるかという打診だった。行くつもりだったので、即答した。週末を候補に日程を調整して、また連絡をすると言われた。遠いこともあり、久しく足を運んでいないので、最近できた美術館にも寄ろうかな、と考えて、ショックが少し和らぐ。

 少し元気になったところで、家から二番目ぐらいに近いと思われる大学まで自転車を走らせる。一般市民でも蔵書を見たり、借りたりできるのだが、利用証が即日発行されないので、昨日に引き続き2回目の訪問だ。2回目にして、無事、目的の資料に当たることができた。
 読みたかったのは、太宰治の『走れメロス』についての論考だ。日本語学が専門の方が書かれたものだが、タイトルからいって、私が考えたのと同じようなことを書いておられる可能性があった。しかし、結論は似通っていても、そこに至る筋道が全く違っていた。読み終えて、思わずガッツポーズをしたくなった。

 大学時代、卒論を書くために太宰の小説は全て読んだけれど、一つの視点から読み解いていく力がなかったために、ちょっと手をつけただけで、放り出した形になってしまっている。
 ここ何年か、映画とキリスト教の関係が気になって、いろいろな映画作家の作品を観ながら、自分なりに思考して来た。けれど、私は映画を専攻した訳ではないせいもあり、映画の学術雑誌に投稿しても、掲載されることはなかった。だから、やはりまずはホー厶グラウンドの文学に戻り、投稿するのが、文章を活字化する一番の早道であると思う。そうはいっても、映画とキリスト教についてしつこく考え続けて来たことは、無駄ではなく、文学作品を読む際にも役に立っているのを感じる。

 『走れメロス』は、私見によれば、太宰のイエス・キリスト好きが色濃く表れた作品であり、背後にはキリスト教の思想がある。中学校の国語教科書の定番教材として、長年、教えられているけれど、教師たちは知らず知らずに、アレンジされたキリスト教の思想を生徒たちに刷り込んでいた、といえるのではないか。

 海外旅行の中止は、『走れメロス』について考えたことを書く時間を与えられたと思うことにしよう、と気持ちの切り替えをはかる私であった。


 どうでもいいつぶやきに最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!