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「推し」に手紙を書き続ける―私の推し活


Ⅰ 文章とは愛する人への手紙である
 

 noteにあきる野のフレンチレストランL’arbreについての記事を書いた。記事のURLをシェフの方にお送りしたら、返信をいただいた。いわば一方的なラブレターに、返事をくださったことが嬉しかった。

 若くして亡くなられた、英文学者にしてフェミニズム研究者の方とお話ししたことがある。その方は、論文は一番読んで欲しい人を想定して書きなさい、とおっしゃっていた。この言葉は今も印象に残っている。これは論文に限らず、書くこと一般に当てはまることだと思う。その方の言葉を私なりに翻訳すると、こうなる。文章は一番読んで欲しい人に宛てた手紙として書きなさい、ということだ。

Ⅱ 「推し」にラブレターを書き続ける

 私はこれまで、一番読んで欲しい人を想定し、その人に宛てた手紙のつもりで文章を書いて来た。そして、一番読んで欲しい人に文章を手渡したり、手紙と共に送ったり、メールに添付したりしてきた。私がこれまで書いて来たラブレターの数々を振り返ってみよう。

 学生時代に、論文を読んでくださった先生から、あなたの言葉遊びの感覚は、活躍中の女性作家を思わせる、といわれ、その作家の小説をデビュー作から最新作まで全て読んだ。雑誌に載った彼女の最新作は、それぞれ国境を隔てた別の場所に住む、3人の男性の三角関係を描いたものだった。これを分析し、作品には実は2001年9月11日に起きた、同時多発テロが織り込まれているのではないか、と考えた。その分析をメールに添付して、その作家に送ったことがある。 

 比較的年齢が近い、女性の映画監督の最新作が公開されたとき、タイトルにひかれて最新作を観た。それをきっかけに、彼女がこれまで作った映画を全て観た。その監督は、テレビ局のディレクター出身で、最初に手がけたテレビ番組、最新作の映画の海外公開版ともに、「手紙」に因んだタイトルをつけていた。そこで、彼女は観る人に宛てた「手紙」という意識で映画を作っているのではないかと考え、文章にまとめたものを監督に送ったこともある。

 知人と話しているときに、ある映画が舞台化されることが話題になった。映画をビデオで観たのを皮切りに、その映画監督の映画をかなりの本数観まくった。とあるシリーズが著名な監督だが、その作品群の特徴は、主人公が異性に対して示すエロースが、いつの間にか無償の愛であるアガペーに転じているところにあるのではないかと考えた。文章にまとめて、監督が所属している会社気付で送ったこともある。

 ある映画の原作が、戯曲であることを知り、その戯曲を読んだ。下町で、留学生と大家さんを仲介するボランティアをしている、中年女性たちの話だった。『男はつらいよ』やイングマール・ベルイマンの映画を踏まえていて、映画好きの私には、ことのほか面白かった。そこで、その劇作家の、活字化されている戯曲を全て読んだ。その劇作家の特徴は、手を変え品を変え、何かに代わって自己犠牲を払おうとする、イエス・キリストのごとき存在を描き続けているところではないか、と考えた。劇作家が演出した舞台を観に行き、文章にまとめたものを人づてに渡したこともある。

 学生時代、ある文学研究者の文章を読んだ。エルサレムに赴いたときの一人の女性との出会いから、第三世界の女性の問題を説き起こしていた。自らの個人的な体験を、研究している問題へと引きつける筆致に、深い感銘を受けた。いつかこんな文章が書けたらと憧れ、その方の書いたものは隈なく読んだ。最近になって、その方の講演会の後に、思いを綴った手紙を添えて、自分の書いたものが載った小冊子を手渡したことがある。

 こうしてみると、私にはその時々の「推し」がいて、なぜ推せるか、を自分なりに考え続けている。
 「推し」といっても、一目惚れのようなものではなく、たいてい他の人から情報を得て、最初は気軽な気持ちで観たり読んだりしている。一本観たり読んだりしたのがきっかけで、全作品制覇を思い立ち、その人の作品にどっぷり浸かるうちに、その作り手が私の「推し」になっていく。ついには、推す理由を書き綴った、「推し」宛てのラブレターを書く。こんなことを、かれこれ20年近くもやっているのだ。

Ⅲ 推し活のこれから

 だが、「推し」に宛ててラブレターを書いてはいるものの、いずれもなしのつぶてである。私の「推し」への求愛は、失恋に終わってばかりいる。私が一方的に求愛しているのだから、相手には私の愛に応える義務はないのだけれど、そうはいってもやはり落ち込む。私としては気合を入れて、最大限努力して文章を書き綴っているのだから。

 相手から何のレスポンスもないと、私はこう思う。私の紡いだ言葉は相手に刺さるものではなかったのか、と。
 また、こうも考える。相手は多くの受け手に向けて作品を作っており、私は不特定多数の受け手の一人、ワンオブゼムに過ぎない。私が文芸評論家、映画評論家、演劇評論家として名をなしていれば別だけれど、無名の人間だから、その言葉は耳を傾けるに値しないと思われているのかもしれない、と。

 しかし、こうしてひがんでばかりいても仕方がない。「推し」の作品を分析するのは、それが楽しいからだし、「推し」に宛てて手紙を書いているのも私がそうしたいから、だ。

 一方的な愛というと、私はイエス・キリストを思い出す。彼は、全人類に対する一方的な愛ゆえに、当時最大の極刑だった十字架にかかり、辱められながら死んだ。私はといえば、「推し」に一方的な愛を捧げたからとて、それを「推し」以外の誰が知る訳でもない。キリストが心身ともに受けた苦痛を思えば、私の受ける精神的なダメージなど何のその、なのである。

 そんなわけで、私はこれからもめげずに、書いた文字に二重線を入れたり、吹き出しで文字を足したりする代わりに、パソコンの画面に浮かぶ文字を消したり、移動させたりしながら、「一番この文章を届けたい人」をイメージしながら、「推し」の魅力について語っていく、そんな気がする。


 最後まで、グチめいたつぶやきにお付き合いくださり、ありがとうございました。
 みなさんは、存命か否かに関わらず、「推し」の魅力を文章にしたことはありますか? 


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