![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/128084397/rectangle_large_type_2_bf5095f28b4e5ece11e1524249260703.jpeg?width=1200)
天照大御神と呼ばれたのはいつからか?
トップ写真 天岩戸別八倉比米神社奥の院祭壇
天照大御神という名は古事記から
サッカー日本代表。
まさかの負け。
結果は変えられないので。
切り替えて進んでほしいですね。
さて今日は天岩戸別八倉比米神社。
祀神は大日孁貴(おおひるめのむち)
即ち、天照大御神のこと
古代史入門 藤井榮さん著の本によると、
天照大御神と記されたのは古事記から。
それ以前の阿波の記録には天照大御神という
記述はない。
天岩戸別八倉比米大神御本記では、
日孁大神(ひるめおおかみ)即ち、
八倉の日孁大神と記され、
万葉集の柿本人麻呂の歌には、
日孁命もしくは日の皇子(みこ)と
読まれている。
日神子命で、ひみこのみことと読まれる。
日孁命(ひるめのみこと)は、
日神子(ひみこ)の死後のおくり名である。
藤井さんの本にはそう書いてありました。
![](https://assets.st-note.com/img/1705645835191-2gYWvanp65.jpg?width=1200)
私たちが皇祖神として知っている天照大御神。
その名は、古事記が作られた時からの名前。
祀神が天照大御神として祀られている神社は、
古事記選定後に創られた新しい神社である。
そうも書いておられます。
すごい自信ですね。
説得力もあります。
古代史の解釈は多種多様
だいたいの阿波説。
他の本を読んでみても、
日孁命は天照大御神であり卑弥呼。
ここは同じ。
ただ一つ、
忌部研究の権威が書かれた本には、
フトダマの子。
天岩戸別が付く神社に祀られている神は、
アメノフトダマの子である。
と、全く違う見解もありました。
どっちが正しいと言いたいわけではなくて、
古代史は、こんな感じで、
人によって、全く見解が変わります。
大切なのは一つの情報で信じ込むのではなく、
いろいろな説を学んで、
ご自身の中で、説得力あるな~と、
感じられた場所へ行ってみる。
それが大事です。
結論出ていないからこそ、
ご自身の感覚を大切に。
○○大学の△△先生が言ってるから。
それが一番危ない考え。
まあ、人は権威に弱い。
ブランディングにすぐ騙されます。(笑)
最も古い鎮魂の様式
こちらの八倉比米神社の奥の院には、
大日孁貴の塚があります。
即ち卑弥呼の塚。
一辺2メートルの五角形の石で組まれた祭壇。
その下含め山自体が古墳。
周辺は200基を越える古墳群です。
江戸時代までは社殿はなく、
現在残る奥の院を拝んでいたそうです。
江戸時代に古墳の一部を削り、
社殿が建てられました。
元々は矢野神山と称されていた、
山自体が御神体。
社殿背後の古墳を拝む神社様式。
最も古い鎮魂の形。
阿波の古い神社に共通している。
(藤井さんの本から引用)
![](https://assets.st-note.com/img/1705645886753-tT0Nv8cXI8.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1705645678307-oAS7IY5lnE.jpg?width=1200)
確かに、そう言われれば、
徳島全域そうなんですよ。
神社の周りに古墳や遺跡が普通にある。
ここ八倉比米神社周辺なんか、
200基を越す古墳ですよ。
古代、ここ周辺は大いに栄えた町があった。
力を持った皇族や豪族が住んでいたのでしょう。
一度参拝されてみれば、
五角形の祭壇の周辺の気。
それは尋常じゃないパワーを感じます。
たまに、
龍神が見える!
龍神様に呼ばれた!
と、おっしゃる、
とても霊力をお持ちの方がいます。
しかし私は龍神どころか、
幽霊も見たことありません。
いたって普通の凡人。
そんな私でも、
この祭壇に近づくにつれ、
あっ!
ここすごい。
そう感じました。
人が言うには、祭壇に向かって左側。
そこが一番すごい気が出てるそうですよ。
ここも移された塚?
と、いかにも天照大神の塚。
というように書いてますが、
現在の場所は移された塚。
昔は気延山(東嶺)にありました。
そこから現在の杉尾山(南麓)へ。
神社の御本記には書かれているそうですが、
記紀の説話は阿波に実在したの、
髙木隆弘さんの私見では、
名西郡神山町神領の高根山こそ、
最初の天照大神、即ち卑弥呼の塚。
そのような見解です。
髙木さんの私見、実は私も同感。
ただ、高根山にはまだ行けてないので、
一旦、保留ということで。
高根山には、
卑弥呼が居たとされる悲願寺があります。
また、天岩戸立岩神社がある同じ神山町。
![](https://assets.st-note.com/img/1705645750602-fc6o9F8JGR.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1705645801598-MK4Wg8M3Cr.jpg?width=1200)
天の岩戸神事は、
天照大神の葬儀という説があります。
天照大神(卑弥呼)が復活したのではなく、
二代目の台与(とよ)。
即ち豊玉姫への王位継承。
現代へ続く大嘗祭。
その元となる初めての神事であったかも?
私の私見です。
天照大神は亡くなり、
葬儀が天の岩戸で行われ、
ご遺体を葬った場所は、
お住まいになっていた高根山。
その後、時代が進み、
倭の中心が、
(倭は阿波、大倭は奈良という見解)
現在の徳島市国府町辺りに移された。
(地名がいかにもと感じさせてくれます)
時は推古天皇の御代。
高天原であった神山町から、
倭の中心となった場所近くに、
天照大神の御霊を移し、
古墳を設け、塚を作った。
そんな流れかと予想。
まだまだ続きます
八倉比米神社。
かなり奥が深いので、
一度では終わりません。
続きはまた次回。
気に入っていただけましたら、
❤フォローいただけますと励みになります。
本日も最後までお読みいただき、
ありがとうございます。