闘争領域の拡大 / ミシェル・ウェルベック
自由というのは絶え間ない闘争であり、性においても然りである。つまるところ、過度な自由は苦渋である。
と、ウェルベックは本書で言いたいのではないだろうか。とても論理建てて書かれていて、その点解りやすかった。簡潔明瞭、シンプルな、そしてしばしばチェスゲームのような文章は、社会の骨格を浮かび上がらせるのにその効果を発揮している。主人公「僕」は、落伍者一歩手前の、つまり鬱一歩手前まで来てしまっている30歳の中間管理職の男性だ。思うに、彼には見えすぎているのだ、ただの言い訳に成り下がったフェミニズムや、普段の仕事内容、人の行動、しいては社会構造の矛盾が。その矛盾についていちいちツッコみそれを真に受けて考えていれば、そりゃ鬱にもなろうというものである。だが、ウェルベックが書いたのはそんな細かいことではない、社会のルールのみならず個人の性生活にまで渡る「普通」でいるための基準とその息苦しさであろう。第三部の「ヴィーナスとマルス」のところでこう言及している。
この、バー<コライユ>で出会った50代の女性のいう「シンプル」を説明する文章が、ウェルベックの社会構造に対する認識を表しているだろう。また、その社会の中での人生については以下の文で言及されていると言える。
この文章の「道」と「行為」という言葉に「人生」という言葉を代入すると、ある意味でのこの小説の要約文ができるように思う。
そして、遺伝性の不平等、顔の美醜や体型、社会的地位についても例を挙げて説明されているが、ここでの主張は、
私はこれらの考えにほぼ賛成だ、というより、正確に言えば、この小説で述べられている事自体、ツッコミのポイントもだが、自分のそれと酷似していて親近感が湧いた。 ただ、このような場合、どのようなものにも表と裏があることを考慮すると、批判しているものが最悪のもの、つまりもっと良いものがあるものであるのか、もしくは欠陥が多々あり酷い面もあるものの実際のところ最もマシなものであり、それより良いものがないからそれを採用しているという状況なのか、ここへの言及、そして可能ならば解決策までぼんやりとでも提示されているとなお良かったかと思う。また、上に挙げた3つの主張が本書にはあったと思うが、Serotonineと比べると、この点で主張が分散していて少々バラバラしてしまった感が否めない。社会の骨格を浮き彫りにするために肉を削ぎ落として骨だけの文体になっているせいか、小説的な、主張とは別の、物語そのものや登場人物への感情移入などの面での魅力まで少し削ぎ落とされてしまったように思う。と、生意気なことを述べてしまったが、現代社会の一側面を映し出したものには違いなく、それを垣間見ることができるという点で、一読の価値があると思う。
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