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キタダ、詩を読む。…VOL.4 身にありて遠きむらぎも


岩岡詩帆さんの歌。「未来」2015年10月号掲載の一連より。

自分の肉体とか精神とか、
存在が「ここにある」はずなのにどこか遠いものに感じてしまう、
そんな気分を感じた歌群だった。
目の前で見ている風景がどこか生(なま)の風景でないような、
みょうに距離感のある感じ。
(疲れているときとか体調の良くないときに私はよくそうなってしまう)

一連の終末の二首が、私にとって、より感受しやすかった。


  身にありてけふ遠からむむらぎもの心に梅雨の灯を眺めをり


「遠からむ」の「む」について。
「断定をやわらげる」婉曲の「~ような」の意味にとるのがふさわしいような気がする。
「身のうちにありながら、今日は自分自身の五臓六腑…そして心さえ、
どこか遠いところにあるもののように思える。
梅雨のさなかのいま、雨のカーテンの向こうで、
やはりどこか遠いもののようににじんでいる街や家々。
そのともしびを私は眺めている」

そう読んでみた。

「むらぎも」はもちろん「心」にかかる枕詞だが、
あえて元来の「内臓」という意味にも解釈し、
自らの心身を他者のように感じる、
そんな愁いを歌った一首として読んでみた。

次の一首。


  水無月の尽(すがり)の坂を登りゆくとほき山河のみづを買ひきて


「すがり」という耳慣れない古語の磁力が私を惹きつける一首。
「初めから終わりまでずっと」を意味する「すがら」が
名詞化したものなのだろうか。
ともあれ、水無月の終わりに坂を登っている。
地形的な意味の「坂」であると同時に、
ひと月を坂に喩えているのかなという気もする。

ミネラルウォーターを買ってきたんですね。
「水無月」と「みづ」、
「(いま歩いている)坂」と「とほき山河」
(私はヨーロッパをイメージした。volvicです。笑)との呼応。
こうみてくると、やっぱり「尽(すがり)」じゃなくちゃいけないな、と、
はたと気づく。
一首の道具立てがきれいに揃いすぎてるので、
ここで現代語っぽく「水無月の終わりの」とやってしまったら、
重心のない一首になってしまう。
ここはやはり古語「尽(すがり)」が醸し出す非日常性というか、
古語の磁力が必要なんですね。


うーん、どちらもいい歌です。





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