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独自の分析力と解析力

私は元々、産まれた環境や、物事を深く考えなければならない状況下で生きた為のせいか、観察力や分析力には長けていた。
私の持論で『日常が非日常になった時には必ず裏で何かが起きている』と感がるようになったのは中学生の時だった。
嘘が当たり前の世界であった為、相手の心意や、自分の状況がどのような状態にあるのか等を日常から知る必要性があった。

中学生の時には母親が、一言の相談も無く勝手に縁談を組んだ。
私は当然断ったが、母親が何か勝手な真似をする度に、私の事を悪く言い、それを断る理由としていった。急に心変わりしたなどと言って断る理由とした。それらは年に数回程度のモノでは無く、私の年齢の成長と共に、月に何度かあるようになっていった。

その為、あらゆる事態に備えておく必要性があった。当時の私は既に
『哲学』を学んでいた為、多少の事なら偉人たちが残した人生を収束した色々な考えから、独自の思想を考えるようにはなっていた。

私が28歳の時、あるオンラインゲームをしていた。現実世界でも仲間内や仕事でもよく頼りにされた。ゲーム内でも気づいた時には、リーダーをしていた。

オンラインゲームでの表現では、ピンとこない人もいると思うので、会社に例えて言えば、私が社長の場合、会社を大きくする事や利益を第一とは考えず、社員たちの精神面や満足度、自己啓発等の大切さを教えながら経営すれば必然と会社は大きくなっていくと言う持論を持っていた。

その為、ゲーム内でも少数で10人程度で特別増やそうとも思わずプレイしていた。ある時、ゲーム内の友人が、私に紹介したい人がいると言ってきた。
ゲーム内で挨拶を交わし、特別大きくも無く、有名でも無い私に紹介したのかを尋ねると、自分はゲーム雑誌の記者で、ゲーム内で色々な事に挑戦したり、記事を書く上で最も最適であり信用出来る人は誰かと、共通の友人である彼に相談した所、自分では無理だが、私に任せれば安心できると言われたらしく、友人を通して私に頼んできた。

私はリーダーではあるが、一番損な役目であって多少の決定権はあるが、仲間の了承が必要だと答えた。そして、皆に確認後、了承を貰えれば協力すると答えた。

その記者は了承し、結果報告を待っていますと言って、私は次の日、皆に相談した。大手雑誌で有名だった為、本当なのか? と言う疑惑さえ言う人もいたが、我々が仮にゲーム内で有名な団体なら、騙して晒す事も有り得たが、共通の友人は以前からその記者を知っていたらしく、協力はしていたが、1人では限界を感じて、私に任せれば安心だと言っていた事などを私は仲間に話した。皆、納得し、面白そうだし、雑誌に自分の記事や名前が載るだけでも嬉しいと言って全員から了承を得た。

私は共通の友人に引き受ける事を話すと、彼は「これで安心できます」とお礼を言って、それ以後は私の仲間たちが協力していく事になった。一度の協力に要する時間は、平均3時間程度のものであった。記者はそれをネタに記事を書き、週刊雑誌であった為、月に4回程度協力して、記事の内容によっては5時間とか協力する事もあったが、当時のプレイヤーの平均ログイン時間は、5時間程度なら多数いた為、問題は無かった。

時が経つにつれ、何か面白い独自のイベントや、記事内容の相談も受けるようになり、皆、盛り上がっていた。私は皆が喜ぶなら何でも良かった為、問題になりそうな事でもない限り口出しはしなかった。私の仲間は少数ではあったが、有能であった為、問題も何も起きず、仲間意識も高まりながら時間は経過していった。

最初の協力から3カ月ほど経った頃、私に仕事としてやってみないかと言う相談をしてきた。当時の私は、最初に言った産まれた環境というものは、英才教育を子供の頃は受けていた元財閥の父を医者に持ち、親戚や従妹たちもそういった教育を受けて医者や会計士、最大手の社長などが軒並み揃っている一族だ。

しかし、私はその世界から親戚の1人であった、大学教授の叔父は私の世界の異常性に異論を持ち、遠縁となっていたが、たまたま母親と叔母が縁を持つ事になり、叔父は私が一族の本家の長男の長子である事を知り、大変な立場だと思ったのか、私を正常な世界へと引き戻してくれた人だった。

しかし、幼少の頃より、漫画やゲームを悪の対象としてきた私の父母の影響は残っており、ゲームを仕事にする事に抵抗があった。すりこみのように私の世界の人間は皆、親からそのように教育され、権威という盾を持ち、世間の人は気づく事は無いが、勉強しかしていない為、常識の無い人間ばかりだった。

一代目程度の金持ちでは無く、数世代前からの金持ちの多くはそう言った思想を受け継ぐ為、今でもその教育が我が一族では続いている。

一度、挨拶も兼ねて私の家に出向くと言って、東京から広島まで来た。事前に女性であるとは聞いていた。食事とお酒を飲みながら話を聞いた。私がどんなゲームが得意なのかや、考え方を聞いてきた。まず得意なゲームジャンルの時点で、相手は興味を深く抱いたようで、色々聞いてきた。私は本来シミュレーションという日本人があまり得意とされていないジャンルのゲームが得意であった。

同級生の間では広島では間違いなく一番上手いと言われていて、そのジャンルのゲームに自信がある同級生は、二十歳を越えても、腕が上がったから挑戦したいと言って挑戦してきたが、私は無敗のまま毎回勝っていた。土日をかけての徹夜の勝負をよくしていた。

私はコンピューター相手にする時には、一度も不通モードではした事が無く、常に上級からしかやった事が無かった。AIもMaxでしていて、尚且つ強い国やキャラクターではプレイしないという縛りをつけてプレイしていた。

その事を話すと、是非前向きに考えて欲しいと言われた。シミュレーションは難しいジャンルのゲームでもあり、友人の中にもいたが、強い国でしかクリアできないとよく言っていた。中には私の言う事を信じない友人もいて、実際にプレイを見せたら驚いていた。

基本的には普通モードでは最初は内政と言う、兵を雇うための米や金を増やすものだが、強いモードではそれでは通用しない。1ターン目から戦争を仕掛けつつ、敵は基本的にこちらの動きに同調するように動き出す為、1ターン目から激戦になる。同盟相手も慎重に選ばなければいけないが、相手との距離も到達時間に影響する為、なるべく近くの強い相手と同盟を結ぶのだが、一度でもヘマをすると、一気に周囲の国から攻められる為、勝ちつつも、防衛しなければいけない。同盟国も最初は援軍などを送ってくれるが、頼み事ばかりしていると、信頼度がMaxであったり、不変の信頼度になる婚姻関係にあっても援軍を送ってくれなくなる。

時には婚姻破棄をされ、連合軍を組んで攻められる事も多々ある。それを色々話したが、既について来れない話であった。シミュレーションゲームは記者は敬遠しがちな理由はある。クリアするまでの時間が一番長く、更にクリアできない人もいる為、時給に換算すると最も低賃金で敬遠される。

私はお金にもそれほど興味も無く、難関に挑戦するのが好きであった為、適任者だと彼女は思った。オンラインゲームだけでなく、シミュレーションのほうも仕事として頼みたいと言われた。

色々話をして彼女は帰って行った。私はスカウトされた事を地元の友人に相談した。彼は県でもトップ5には間違いなく入る程のシミュレーションの実力者だった。彼は私なら問題は絶対にないと言い切った。断トツの1位で、正直相手が居なくて楽しめないから、縛りをどんどん増やしていってプレイしていた。ちょっとそれは無いだろ! と言うような強い相手を戦わずして寝返らせる事や、セーブをしながらミスした場合、セーブポイントまで戻るような事もせず、クリアまで時間がかかる為セーブはするが、ノーセーブ状態で毎回していた。そんな拷問のようなプレイをする人は、他にはいないと彼に言われた。

それから2,3カ月後に彼女は再度、私に会いに来た。私は快諾し、東京に出る事になった。小説を書くようになった今だから分かるが、記者はそれほど難しくは無いと思う。ゲーム雑誌に限り言わせてもらうと、プレイ内容から分析力や解析力でどれだけそのものを見極められるかが大事であり、それが出来れば自ずと文章は書ける世界だと今は思う。

彼女は数年働いていたが、編集に出す前に、私に事前に問題が無いか、確認するようになっていった。それは内容もだが、文章的な意味も含めた上での話だった。私は東京に出る前から、頭の回転速度を上げる為に10秒で答えまでいく事を5秒で、5秒を3秒でと訓練していた時期があった。その為、ある程度の物事なら即断出来るようになっていた。

それは仕事でも活かされるようになった。取材内容は私が考え、彼女がインタビューする形式で、私も同席はするが、それはあくまでも予定外の事を知った時の為に質問を即断で返せるようにする為であった。取材内容は私がじっくりと考えたものであった為、予定外が起こる事は実際には無かった。

私の解析力は通常の手法とは違い、私の世界があったからこそのやり方だった。メインで行っていたオンラインゲームの総合プロデューサーは、少し話しただけで、私と同等程度の頭の持主だと直ぐに分かった。ゲームシステムや総合的な問題点は無く、熟慮出来るタイプだと。

相方の彼女は、私と二人で会話させたいと願っていたが、それは実現しなかったが、ある事から私の実力が本物だと、誰もが認める事となった。
それは誰もが興味を示す、会社にとっても非常に大切な最初の大型アップデートの内容を、私の独自な分析で総合プロデューサーの奇抜な思想と誰もが驚くような内容を私は全て当てた事にあった。

最初に大型アップデートの情報が出た時に、ゲーム内では色々な予想を皆が立てて賑わっていた。メインの事は伏せられたまま、あくまでも発売日とその他の情報は公開されていたが、メインの情報は雑誌会社にも秘密にされていた。

他の雑誌業界の事は知らないが、ゲーム雑誌業界の中では取材は非常に重要なポイントとなる。まず各社に対して同じ素材、つまりは情報が渡される。それから各社は取材に行く訳になるのだが、取材で質問して得た情報は、その雑誌社は載せてもいい事になっている。その為、取材内容次第では大きく差が出て来る訳だ。

相方は記事を書く事をメインにし、全ての雑誌のネタやインタビュー内容等は私の役目だった。編集部や相方にはブレインと呼ばれ、要の脳であると言われていた。プレッシャーに押しつぶされるようなヤワな脳では無かったが、責任は重大であった。私は何よりも自分自身が満足しなければ、自分自身が許せない性格でもあった。

私は一人であらゆる方向性も考え、あの人が満足して出せるモノを深く考えていた。日本では多くのオンラインゲームが失敗し、成功した数はほんの僅かであった。その事も考えると絶対的な自信があるモノとなると、と私は1日かけて熟慮した。より深く楽しめる為のモノを追求した。

私は取材までまだ数日あった。仲間内でメインのバージョンアップはどんなのになるのか皆で話し合っていた。私が自分の意見を言うと、誰もがそれはさすがに無いと言われた。そうなれば面白いけど、それは無いでしょと言われたが、私には自信があった。

そして取材当日の日がやってきた。
相方が、総合プロデューサーと、何かの部門のプロデューサーにまずはよくある質問を投げかけ、様子を見てから彼女は私を見た。私はただ頷いた。

まだ完全極秘のメインの情報の話が進むと、相手は黙り込んだ。相方はそのまま私の考えを伝えていった。その間、相手は黙ったままだった。こちらのメインの予想を全て伝え終わったら、奇妙な顔つきで二人は顏を見合わせてから、「どこから得た情報ですか?」と聞いてきた。
彼女は「彼の予想です」と自慢げに相手に言った。
2人のプロデューサーは私に目を向けた。そして暫く静かな時が流れた。
総合プロデューサーは暫く考えた上で、「仰る通りです」と認めた。

認めるしか無かった。仮に認めなかったら情報は公開される。それがこの世界の常識であった。しかし、開発会社としては、発売前にメインの情報が外に出る事だけは避けたかった。それにはまずは認めるしか無かったのだ。
認めた上で、総合プロデューサーは交渉してきた。

賢いプロデューサーが相当悩んでいた。絶対に誰にも予想出来るものでは無いう自信が、崩れ去るとは思いもよらなかった。情報を伏せる代わりに、特別取材を条件に出してきた。ページ数も多めの今後の展開等を含めた情報を発売後に、他には話さない情報を話すと言って来た。

彼女は私を見たが、私としては当たった事で満足していたので、軽く頷いた。交渉は成立し、情報は未公開のままで、他にも得た情報はあったので、それで補った。

しかし、私の体に異常が出始めていた。今までの人生では裏方だった。それが体に染みついていて、公けの場には慣れていなかった。過度の緊張から汗が止まらなくなり、私はこれ以上は取材には同行できないと思い、自ら迷惑をかけるから辞める事を編集部と相方に伝えた。

編集部も相方も、私はブレインだから今後の取材には同行しなくていいと言い、ブレインとして今後も働いて欲しいと頼まれた。私はそれなら問題ないので引き受けた。私は裏方に徹する事になったが、取材の件もあったが、それとはまた違う部門の仕事もしていた。

私が受けていた仕事は他の開発会社と違って、ゲーム自体の難易度が高いものであった為、通常は最初にプロトタイプのディスクが送られてくる。そしてその次に発売されるディスクが送られてくるのだが、難易度の調整が微妙な為、3回に分けて送られてきていた。

その会社の違う部署の仕事も、私と相方の二人で全て受けていた。その開発会社の全てのゲームとたまに他のゲーム会社の仕事も受け、彼女は独自の仕事もしていた。意見を求められる事も多々あったが、メインはその会社の仕事となっていった。会社内でも記事の評価は高かった為、社内の他の雑誌を出している部署の仕事も受ける事になった。開発会社は同じであったが、やはり違う部署でも、その会社が出すシミュレーションゲームに関しては苦戦していた。

私と相方としては、同じゲームを攻略する訳であって、両方の雑誌に情報に特色を出して出せる訳であった為、全く問題なかった。
プロトタイプをまずはプレイして、まだまだ開発は進んでいない事は分かった。そして次に送られてきたモノも、まだ微調整が足りなさ過ぎていた。
私がかなりやり込んで、ようやくクリアできるステージにはチェックを入れていった。兵が多すぎる為クリア不可能に近いステージや、クリアは可能ではあるが不可能に近いほどのステージなどに、私が微調整を加えた資料を相方に渡して送ってもらうよう頼んだ。

相方は言い難そうな顏をして「送ってもいいけど、他社も同じだけど普通は返事も無いし、適用される事はまず無いから、それでもいいなら送るけど」と言われた。私はそれでもいいから送るように伝えた。

それから2,3日後、相方に開発部門から返事が来た。そして微調整されたものは使わせて頂きますと、お礼を添えて返信が来たと興奮しながら言ってきた。私は何故それほど興奮しているのか理解出来なかったが、異例中の異例で返事が来る事自体無いのが当たり前で、しかもこちらの意見を聞く事は彼女が知る限り、初めての事だと大喜びしていた。実際、私の意見以外が採用される事は無いものだった為、高く評価された。

しかし、問題もあった。私は広島の中でも、一番汚い方言の呉という町に住んでいた。なかなか抜けるものでは無く、ヤクザ映画の『仁義なき戦い』の舞台となった町に私は住んでいた。映画の主役のモデルになった人も、母親は知り合いだった。

当然、出る杭は打たれる。私は身体に嫌というほど染みついたケモノに近いほどの、感じ取る力が身についていた。聞こえないフリをしてはいたが、2,3人が、私の悪口を言っていた。方言がキツすぎるせいだった。
実際、休みが長く取れる時には帰郷して、仲間で飲みに行ったりしていたが、会ってすぐに「どしたん? 気持ち悪いくらい染まってから」と笑われた。自分では気づいていなかったが、私の喋り方はもう、やわくなっていたが、それでも東京ではキツかったようだ。実際、私は仲間と話しながら、ただの輩たちだと思った。そりゃ直球で注意も出来ずに、陰口も叩かれるわと思った。特別キツい言葉では話していなかったのに、通常の言葉ですらキツすぎるものだった。

まあ特別問題はそれほど無かった。実際に会社に行く時は、月に数回あれば多いくらいで1,2回編集部の人と3人で、打ち合わせをする時に行くくらいであった。全幅の信頼もされていて、相手先の会社にも認められていた為、全ては任されていた。時には大いに驚くほど喜ばれる事もあった。基本的に私は自分で認めるモノしか提案しなかった。その何れもが、他の雑誌会社も他者にも出来ないものばかりであった為、私たちの記事の評価は、非常に高いものであった。

あるイベント絡みの仕事でMicrosoft社にも行った事があった。
受け付けを済ませると、日本の警備員とは違う、本物の警備員が現れた。
背も高く、姿勢も良く、私も武術を習っていたから直ぐに分かったが、
本物の強さを持つ警備員が我々を案内した。

受け付けのある一階のロビーは広々としていたが、中に入るとまるで迷路のような作りをしていて、日本にあっても、海外にいるような感覚になった。
私はフランスには一週間、イギリスには半年ほど居た事があった。
あの時のような警戒心がそこにはあった。

イベントが始まり、お笑い芸能人と相方はイベントに参加した。私は別室で待っていたが、暇なので外の空気でも吸おうと思い、外に案内して貰った。
外に出る前の扉まで案内され、そこで警備員と別れた。
私はその扉から確かに出た。出た後、後ろを振り向いたがどこにもドアは無かった。取っ手も無く、ドアが何処にあったのかさえも、分からないように
隙間さえも見当たらなかった。正直、流石だと感心した。こうでなくてはいけないものだと、私は強く思った。

私は自分の素性は誰にも話さなかったが、多くの人を見て来た。だから人間の事は良く知っていた。ある時、新しい雑誌の部門が出来る事になり、そこの仕事を任される事になった。オンラインゲーム部門の担当に私はなった。
新任の編集長は少し話しただけで権力に弱い人間で、功績を無理矢理にでも上げようとしていた。弱い者には強きで、強い者には弱い典型的なダメな人間だった。

私は仕事の内容を聞かされ、これをするには1,2カ月はかかると言った。
彼は私に言った。「どうせ読者にはバレないんだから適当に書けばいい」と言われた。私はこういうクズが一番嫌いだった。いい歳をして間違った事を教える人間を大勢見て来た。私は相方にそれを相談し、相方はナンバー2の編集長にそれを報告し、話は大きくなった。だが、結果がどうなるのかは私は全て知っていた。子供の頃から知っている世界だったからだ。私のなまりも攻められる事になるのも分かっていた。きっかけが無かっただけで乗って来ると、相方にはどうなるかは先に話しておいた。

私の予想通りの展開になったが、ナンバー2の人は善人で仕事も出来る賢い人間だった。昔は仕事人間で、それが元で離婚歴はあるが、再婚してからは必ず家に帰るようにしていた。自己啓発のある人間だった。私はどうなるかは分かっていた。英断が出来る人間は少ない。あの総合プロデューサーの人もそうだったが、似た匂いというか何故だか分かる。もしかしたら私だけが分かっている事なのかもしれないが、彼が英断を下す事は分かっていた。
その部署の仕事は辞めて貰うという決断をする事は、分かり切っていた。
電話があり、今回の問題は真剣に取り組むつもりですと、直接では無いにしろ、一応は部下の立場である私に対して敬語を使い謝罪した。
代わりの仕事を用意しますのでと言われたが、私は大丈夫です。と答えた。
彼のような立派な人には、出来るだけ迷惑はかけたくなかった。
私は自分で自分の幕を下ろした。

他の部署からの仕事はあったし、特に何の問題も無かったからだ。
私の後を継いだ人は、相方も知らないどこからか拾って来たのかも不明な人が後を継いだ。つまりは良くは無い人間の部類だ。金が入ればそれでいいという思想の持主だ。私は前々から仕事を受けてたPCゲームメインの部署をメインにした。実際、以前からそうではあった。仕事内容は変わらず、開発会社からはいつの間にか『例の人』と呼ばれていると編集部の人に言われた。

大きなイベントが行われる事になった。ユーザーも100名ほど募集し、大きなバージョンアップの発表会が恵比寿で行われる事になった。私は舞台には上がらず、開発会社の人に、相方が私を紹介した。『例の人』ですねと言われた。インタビュー内容は私が考え、一応しっかりとした内容を質問させた。相方はそれでも、本来は私に上がって欲しかったと言っていた。
おそらく陰の功労者とするには、気の毒に思っていたのかもしれない。仕事ぶりは常に高い評価を受けていたからだ。

しかし、私からすれば慣れているものだった。それが普通の世界で生きて来た。その方が異常な事に気づかないまま生きて来た。一度ボイスチャットで北海道の人が天才3人兄弟が近くに住んでいると話していて、3人ともが医者だからテレビに出たとか話していた。私には何が天才なのかさっぱり分からなかった。従妹に医者は10名以上いるし、テレビにも出た医者の叔父や戦艦ヤマトの設計者も叔父にいた。ある種の日本一の会社の社長も叔父であった。皆には私のほうが異常だと言われた。

私も医者になる予定だった。英才教育を受け、全国模試でもトップクラスだった。しかし、私は母の教育に疑念を持った。人間は疑念を持つとその他はダメになる。私は哲学者の道を選んだ。だから色々な事にも対処できるようになった。自己啓発や人としての大切さや優しさ、弱い者を助ける精神。
それらが私を形成した。皆、金持ちだがそれだけだ。苦い汁をすすり、生きて来た事を私は知っている。

私の天職は基本的に裏方ではあるが、分析や解析だと思う。誰もがでは決して無い、自分の人生を通して身に着けたものだ。人助けも出来るし、どんな相談にも乗って来た。多くの色々な人を知り、見てきてそれを独自な視線で見る事によって、私にしか見えないモノが見えて来る。この能力を活かせば何でも出来る。悲運な人生を送る人を見過ぎた私は、自分の天職は人助けだと思っている。そしてそれを望んでもいる。

#天職だと感じた瞬間

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