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【長編小説】 羊たちが眠る夜は
1
螺旋状の階段に一人の少女が座っていた。
壁には本棚が並び、規則的に色分けがされている。
「お兄さんも来たんだね」少女は微笑んだ。
「僕は初めてさ。君は?」
「あたしは12回目。ここには色んな国の言語で書かれた本が集まっているの」
「君が読んでいるのは、一体?」
本には見たことのない文字が書かれていた。
「さぁ、何語かしら。でも、書いてある文字を読むことはできるわ」
「僕には分からないよ」
「文字をよく見て。ほら、あたしがなぞったところが読めるでしょ」
少女が指でなぞると、文字を読むことができた。
「本当だ。“羊たちが眠る夜は”って書いてある」
「そうでしょ、あたしもなんだか眠くなってきた」
少女はその場で眠ってしまった。
「ねぇ、起きてよ」
少女は寝息を立て始めた。
僕も眠くなった。
気付いたら、朝だった。図書館の窓に朝日が差している。
扉を開けると、羊の大群が僕らを出迎えてくれた。
2
羊たちは図書館の入り口でメェーと鳴き始めた。
その鳴き声を聞くと、少女は突然目を覚ました。
「もう、こんな時間」と少女は慌てた様子を見せる。
少女は羊に近寄り、羊を撫でた。
撫でられた羊は心地良さそうだった。
「どうして図書館にやってきたんだろう?」僕は疑問に思う。
「早く支度しなくちゃ」
「どこに行くのさ」
「決まっているじゃない。朝ごはんを食べに行くのよ。この子達はお腹をすかせているの」
図書館を抜け、500mぐらい進んだ先に草原が広がっていた。
羊たちは草を食べ、一連の作業が終わると何処かに行ってしまった。
「どこに行くんだろう」
「さあね、あたしにも分からないわ。でも、朝になったら、また図書館に戻って来る。戻りましょう、あたし達もご飯を食べなくちゃ」
そう言うと、少女は来た道を歩き始めた。
遠くにいる羊たちが何だかとても小さく見えた。
3
羊たちと別れ、図書館に戻ると少女は慣れた手つきでポットに水を入れ、お湯を沸かし始めた。
トースターや冷蔵庫まで備え付けてある。
「君はここに住んでいるの?」と僕は尋ねた。
「まさか、そんな訳はないわ。ここの図書館はおじいちゃんが管理しているの。
だから、ここにある物は自由に使って良いのよ」と少女は微笑んだ。
そうこうしている内に、ロールパンの焼ける匂いがした。
「さあ、朝ご飯を食べましょう」と少女は言った。
僕はバターを塗り、少女はジャムを塗った。
テーブルの上には『Cold morning & Hot night 』と書かれた洋書にMarieというサインがされていた。
「ところで、どうして君は本をなぞると文字を読むことが出来るの?」と僕は聞いた。
「そんなの簡単よ。あたし、魔法が使えるから」と少女は何事もないような顔をして言った。
4
「魔法・・・君は魔法が使えるの?」と僕は驚いた。
「そうよ、この本に呪文が書かれているの」
少女はそう言って、ロールパンを齧った。
「この魔法書は図書館の中から見つかったの。おじいちゃんが図書館の倉庫を片付けていたら、出てきたのよ」
「中を見てもいい?」
「どうぞ」
本の中を見てみたが、何と書かれているのかさっぱり分からなかった。
「おじいちゃんは、この文字が読めなかったみたい。目が悪くなったからと言って。昔から本をたくさん読んでいて、世界の歴史や羊の話をしてくれていたのに。でも、あたしは違ったの。この本を手にした時から呪文を読むことができたの」
「もしかすると君は・・・」
僕は言いかけたが、少女が先に話し出してしまった。
「自己紹介がまだだったわね。私の名前はマリー、よろしくね」
5
自己紹介を終えると、ちょうど時計の鐘が鳴った。
「そろそろ家に帰るよ」
「そう、あたしはまだここに残るわ。でも、夕方になったらまた帰って来てほしいの」
「どうして?」と僕はマリーに尋ねた。
「前に変な人が来たの。狼のマークが入った帽子を被った男よ。その男はある本を探していると言ってきたの。おそらく、男が探しているのはこの魔法書だと思うわ」
「男にはなんて答えたの?」
「もちろん、この図書館にはそんな本はないと答えたわ。でも、しつこいの、その男。なかなか帰ろうとしなくて」
「なんで、狼男は魔法書のことを知っていたんだろう?」
「さあ、分からないわ。でも、絶対に渡さない。魔法はあたしにしか使えないもの」
「分かった。また夕方には帰って来るよ」
僕はマリーに約束し、図書館を後にした。
6
僕が図書館に戻ったのは時計の針が5と6の間を指した頃だった。
辺りがオレンジ色に染まる中、僕はクッキーをリュックサックに入れて図書館に来た。
僕が出かける前に「これを持っていきなさい」と母さんが手作りしたものだ。
僕は図書館の扉を開け、「マリー、戻ってきたよ」と言った。
しかし、マリーからの返事はなかった。
テーブルの上には手紙が置かれていた。
「少年、マリーは預かった。返して欲しければ、丘の上の屋敷まで来い。私はそこにいる」
封筒の裏には狼の刻印がされていた。
「マリーが危ない」
僕は急いで、丘の上まで走った。
7
丘の上の屋敷ではマリーと狼男が話していた。
「なあ、そろそろ本の在処を教えてくれないか。そうすれば解放してやる。羊たちが眠る夜について」
「何のことかさっぱり分からないわ」
「お嬢ちゃん、君のおじいさんから聞いていないか。その昔、この街の気候は朝と夜で大違いだった。朝は冷たく、夜は暑い。俺たち、狼にとっては夜に暑いのは困る。夜に行動するからな。そんなある時、気候を変えてくれた奴がいた。それが君の先祖の魔女だった。そして、この街の気候は正常に戻ったんだ」
「魔女?私の先祖?」
「君は知らなかったのか。まあ、そんなことはどうでもいい。問題はその後だ。気候が変わったことで、何故か俺たちの食糧である羊が夜に現れなくなっちまったんだ。お陰で俺たちは空腹で耐えられなくなった。そんな時だ。その魔法書に羊たちの居場所が書かれていると聞いたのは」
「それであたしの本を狙った。でも、おじいちゃんから聞いたことがある。その昔、狼は羊たちを酷い目に合わせた。だから、その罰としてこの街の天気を操った者がいると。それがあたしの先祖だったなんて」
8
僕は丘の上まで走って行った。
「マリー、無事でいてくれ」
息を切らしながら、何とか屋敷の前まで来た。
屋敷の中からは誰かの話し声が聞こえた。
「本を返してよ」
「ハッハハ、残念だが、この本は俺がもらった」
「やめろ」
僕は勢いよく屋敷に入っていった。
9
「少年、ようやく来たようだな。しかし、もう遅い。この本は俺がたった今、受け取った」
「その本を返せ」僕はそう言いながら、紐で縛られているマリーの前に立った。
「まあ、落ち着け、少年。どうやら、この本はお嬢ちゃんじゃなきゃ読めないらしい、仕方がない。解放してやる条件だ。この本に書かれている内容を読め。ただし、書かれている内容と違うことを言ったら、お前らの命はない」
気が付くと狼男の手下たちが、僕とマリーを取り囲んでいた。
10
狼男は魔法書を僕に渡した。
「さあ、お嬢ちゃんに読んでもらおう。君はこのページを開いた状態でお嬢ちゃんに見せるんだ」
僕は魔法書を受け取り、言われた通りにマリーに本を見せた。
手下たちはマリーの手首の紐だけを解き、マリーの指を使えるようにした。
『羊たちが眠る夜は、狼と遭遇しない夜のことである。これまで羊たちは狼を恐れ、多くの犠牲が払われた。羊たちが安らかに過ごすために、羊たちを図書館の朝に出現させることとする。
よって、気候を操作する代償として、狼は食糧を失うこととなるだろう。この決断は街の将来のためにある。ただし、狼が我らや羊たちと共存することが出来るのであれば、元の世界に戻そう。その時が来るまで』
マリーは静かに読み上げた。
それを聞くや否や、狼男は「なにがキョウゾンだ?ふざけるな。俺たちはずっと飯に在りつけないんだぞ」と怒鳴り、「お前たち、こいつらを始末しろ」と大声で叫んだ。
手下たちが僕らに襲い掛かろうとした、その時だった。
屋敷の方へ、何かが大きな音を立てて近付いてくる。
「な、なんだ、何の音だ」と狼男が言った。
次の瞬間、大量の羊たちが屋敷に飛び込んできた。
11
「あたしたちを助けに来てくれたの?」
マリーが呟いた。
「なんで、こんなに大量の羊がいるんだ。ああ、腹が立つ。こいつら、まとめてやってしまえ」と狼男が手下たちに命令をした。
手下たちは羊たちを襲いにかかったが、羊たちは果敢に戦った。
僕は羊たちが戦っている間に、マリーの縛ってある紐を解いた。
一匹の羊がマリーの前で立ち止まり、開いた魔法書に片足を乗せた。
すると、羊が見る見るうちに人間の姿に変わった。
「おじいちゃん」とマリーが言った。
「もう大丈夫だ。ワシは魔法で羊に姿を変えていたのじゃ」
僕は驚きながら、マリーのおじいさんのそばにいた。
「もうやめんか。狼、こんな争いは必要ない。お前たちが悔い改めるというならば、食糧を提供しよう。この街を元あるかたちに戻そう」
狼男は手下たちが倒れていく様子を見ながら、諦めたのか、「分かった」とだけ一言呟いた。
12
僕とマリーとおじいさんは図書館に戻った。
「でも、どうして僕らが丘の上にいると分かったんですか?」とおじいさんに尋ねた。
「君のリュックサックの中さ」とおじいさんは指を指した。
「おじいちゃんは美味しいものに目がないからね」とマリーは言った。
こうして、僕らはクッキーを食べ、お茶を飲んだ。
狼は羊と共存し、街に平穏が訪れた。
『羊たちが眠る夜は、安らかな夜のことである。図書館には老人と少女と少年が過ごし、近くの丘には羊と狼が住んでいる。出会うことがなかったものたちがある出来事をきっかけに知り合い、関係を築いたのである。きっと、同じようなことがあちこちで起きているに違いない。この物語はここまで』(おしまい)
*連続小説 羊たちが眠る夜は1~5に加筆修正したものです。