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具現化しづらいマクロな問いを考え続けることと自分のこと

今週、大学院の修了が確定し国際関係学の修士号を得ることとなった。
この二年間の学びを振り返りつつ、マクロな問いに意味はあるのかについて考えていきたい。

マクロ(抽象と言い換えても)とは、ここでは、例えば世界経済とか平和、技術進化による人間の生き方の変化とか、そのような時間軸や関わる変化の母数が多いものとして提示する。逆に、ミクロ(具体)とは、自分の目の前にある仕事にどう取り組むか、人間関係をどのように良好にするか、どうスキルを身につけるかなどの、How toを考えやすいものとする。

そう考えた時に、国際関係学は、国家間の対立はなぜ起こるのか、グローバル企業はその国の経済発展に貢献するのか、貧困はなぜ生じるのかなどを扱う。そのような問いを探求する中で、自分の思考の広がりを感じ、共感できる幅が拡大していくことに喜びを感じつつも、そのようなマクロな問いに対して、解決に取り組めていない自分に憤りを感じる。

学問や研究とは、数十年先、百年先の未来について探求するものなので、現実との乖離が大きくなるのは仕方ないけど、自分自身が問題の解決の一部になれていないならば問題の一部になっているわけで、それは自分の思考や言葉が良いと思っている状態に対して嘘をつき続けているように感じる。

そう考えると、マクロな視点を学び続けて未来を見ることは、必ずしも個人の幸福の実感には繋がらないのかもしれない。ここ最近は、修論に打ち込んでいたので、あまり自分自身がどうであるかは考えないで済んだ。しかし、一旦修論を提出して、「あなたは次どうするの?」という問いに向き合った時、自分の生き方は自分が考え続けてきたマクロな問いに一致していないのではないかと不安になった。

マクロな問い、例えば「30年後、人間の仕事に対する意味づけは変わるのか?」に対しての僕の中でのひとつの回答は、いずれ「暇つぶしとして働くことになる」である。これは、ゲームや漫画を読むというようなことの一部とし仕事をする時代がくると考えている。
それは、10年後消える仕事は何か?というような不安を煽るようなマクロな問いを考えるのではなく、一人当たりの摂取可能カロリーや利用可能エネルギーの視点から考える。具体的には、農業革命による一人当たりの摂取可能カロリーの増加や、省エネ製品や、新しいエネルギーの供給源が増えるにつれて、いずれ生活するためだけなら、別に働かなくて済む時代がくると思っている。人が生きるために、必要なカロリーとエネルギー量は増加し続けており、また現代は確かに格差が広がっているが、最低水準は向上し続けている。

この意味でいずれ生きるために仕事をする時代は終わると考えている。もちろん、これは貧困や飢餓、環境問題を考えないで良いという意味ではなく、全体的な傾向の話であり、これらの問題を解決するために取り組んでいる人がいるからこそ、問題は解決され、何もしないで未来が訪れることはない。

少し話が長くなったが、このような問いを考えて自分なりに回答を出す時、なぜ仕事をするのかについての回答は今の自分の選択と矛盾しているように感じる。今は、自分が食べる、自分が支払う費用のために仕事をするという考えもある。また、社会で活躍したいという想いも強い。
このようにまず自分のレベルで満足した先に、国際関係学で取り組んだ、環境、経済、社会の側面での持続可能な発展についての問いに回答していきたいと考えている。しかし、マクロな問いが心に残り続け、この問いについての行動として回答を示せない限り心の重荷にもなるだろう。

その意味で、タイトルに戻るが自分が具体化できないマクロな問いを考える続けることは意味があるのだろうかと疑問につながった。マクロな問いは、くすぶり続ける感情やコンプレックスにつながり、それを原動力とする時、多くの人を傷つけながら生きていくことになるかもしれない。僕の原動力の一つは「愛されたい」というものだ。しかし、愛されたいという感情は、無制限に愛を求め続けてしまい、それを求められる相手からしたら重荷になってしまうかもしれない。また、コンプレックスが解消されていない限り、現状の全否定につながるかもしれない。

人間が完璧に満たされることなんてあるはずがなく、社会が完全であった時代なんで今後も訪れないだろう。そう考えるとき、負や不、長期的かつマクロな問いに向き合い続けることは、そのようなマイナスの感情を助長してしまうかもしれない。

個人的には、それでも問題の解決の一部でありたいし、その分不満足を抱えてしまうことは増えるのだろうけど、向き合い続けたい。

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