0330:小説『やくみん! お役所民族誌』[4]
第1話「香守茂乃は詐欺に遭い、香守みなもは卒論の題材を決める」(4)
<前回>
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みなもの実家は、平成半ばに造成された比嘉今(ひがいま)町の新興住宅地にある。市町村合併によって県庁所在地・松映(まつばえ)市に組み込まれたものの、市中心部にある澄舞大学への通学には、徒歩と電車とバスで一時間あまりかかる。車で直行すれば15分ほどだが、免許を持たないみなもは公共交通機関に頼るほかない。秀一のアパートで親公認の半同棲を始めたことで、通学の不便は大きく解消したことになる。
その日の夕方、みなもは比嘉今に戻った。碁盤状を意識しながらもメリハリをつけた街区には、同じような築年数の戸建てやアパートが立ち並ぶ。しかしそのひとつひとつには、それぞれの住人の個性を反映して、異なる趣があった。
香守家の敷地は道路面から1メートルほど嵩上げされ、駐車場の端からスロープが玄関に続いている。みなもはスロープをゆっくりと上りながら、五日ぶりの我が家を見上げた。赤みがかった明るい土色のサイディング、黒の瓦屋根の2階建て、45坪。
父がこの家を建てたのは、みなもが5歳の時だ。その前は澄舞東端に位置する八杉(やすぎ)のおばあちゃんちに皆で暮らしていた。更地に基礎が立ち上がり、棟上げされ、外装そして内装が少しずつ整う過程を、みなもは父に連れられて何度も見に来ていた。それから16年が経ち、新築時の輝きは失われていたが、この家で家族と共に成長してきた記憶は、みなもにとって他の何にも代え難い宝物だ。
玄関の引き戸を開けて靴を脱ぎ、右手のリビングに入ると、みなもの両親がくっついていた。正確にいえば、炊事中の母・和水(かずみ)の胴を背後から父・朗(あきら)が抱きしめ、幸せそうに目を細めて首筋の匂いを嗅いでいた。
「にゃもちゃん、おかえり」と和水がそのまま笑顔を向け、みなもは「ただいま」と応える。
朗も和水をもぎゅったまま、子供のように顔を輝かせて言った。
「にゃも、大変だ、母しゃんが磁石になっちゃった!」
んなわけないでしょ。
「そんでな、父しゃん鉄だから、くっついちゃった!」
二度目の、んなわけないでしょ。
そんな言葉は胸にとどめて口にはしない。香守家のいつもの風景、突っ込んだら負けだ。
「鉄じゃなくて、ケツアタック!」
いいながら和水がお尻で朗をポンと押しやると、朗は「うわああああ」といいながらくるくる回転して離れ、再び和水に吸い寄せられるようにくっついた。移動に合わせて声にドップラー効果らしきものを効かせているあたり、無駄に芸が細かい。
「ええい、料理の邪魔」
「邪魔じゃないよ。お手伝いだよ。父しゃんがくっつくと、母しゃん元気になるよ。ほら、旦那にこんなに愛されて、母しゃん幸せでしょ? 幸せでしょ? すーっ、はふう」最後のは愛妻の首の匂いを吸い込んでオキシトシンだだ漏れの呼吸音。
みなもは思う。父しゃんは犬タイプだ。飼い主が大好きでちぎれんばかりに尻尾を振って顔をなめ回す犬のように、いつも母しゃんにまとわりついている。母しゃんは猫タイプだ。父しゃんのじゃれつきを時には軽くあしらい、時には撃退して、気の向いた時には自分からじゃれついていく。
結婚して24年、どんだけ仲いいんだか。
その時、二階から下の弟の歩(あゆむ)が下りてきた。
「にゃもちゃん、おかえり」
「あー、あゆたん、久しぶりー」
みなもは相好を崩した。
中学三年生、締まった細身の体つきは、この夏の大会で引退するまで陸上部で汗を流してきた賜物だ。背丈はもうみなもを越したが、顔立ちにはまだ多分に幼さが残っている。
「大きくなったねえ、先週より背が伸びた?」
「んなわけないでしょ」
しまった、私が突っ込まれてしまった。
6歳下の弟は可愛くて仕方ない。家族で立ち会い出産だったので、生まれた直後に抱っこさせてもらえた。大きくなるまで何度もおむつを替えた。だから気持ちはほとんど保護者だ。
昔のように抱きしめて頬ずりしたいところだが、今やあゆたんも思春期男子、がまんがまん。
でも父しゃんは少しもがまんせずに母しゃんにくっついて、邪険に扱われて悦んでいる。あんな風に「大好き」を素直に――素直すぎるくらいに言葉と態度で表わせたら、幸せなんだろうな。
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香守家には独特の家族間呼称ルールがある。
父・朗は「父しゃん」、母・和水は「母しゃん」。長女のみなもは「にゃも」または「にゃもちゃん」と呼ばれる。末っ子の歩(あゆむ)は「あゆたん」。みなもの二歳下の弟で、東京に進学して家を離れた充だけは、そのまま「みちる」だ。
これらの呼称は、どれも幼い頃のみなもの言い方だった。「おかあさん」とうまく発音できなくて「かーしゃん」という具合に。もちろん、両親がそれを面白がって一人称にまで採用したから、家庭内で二人称・三人称としても固定し、二十年近く経った今もその習慣が続いているのだけれど。
みなも自身の呼称「にゃも」もそうだ。
「小さい時は、みーちゃん、て呼んでたんだよ」
そう朗から聞かされたのは、中学二年生の時だ。みなもの部屋。みなもは椅子に腰を下ろして、口をへの字に結んでいる。涙はもう乾きかけていた。朗は床に胡座をかいて、娘を見上げていた。
「でも三歳になる前くらいだったかなあ、自分のホントの名前がみなもだって、意識したんだろうね。父しゃんが「みーちゃん」て呼んだら怒って「みーちゃんじゃにゃいの、み・にゃ・も!」って言うんだ。もうねえ、舌が回ってないのが可愛くてねえ、たまらんかったよ」
遠い記憶を語る朗の眼差しは、深い愛情を湛えて、真っ直ぐに思春期のみなもに向けられていた。
「「えー、みにゃもなの?」「そ!」「父しゃんは、みーちゃんって呼びたいなあ」「だめ!」「じゃあ、にゃもちゃんて呼んでいい?」「それにゃらいいよ!」と何故か許可してくれてね。以来、にゃもになったわけだ」
そこまでいうと、朗は感極まり「はうあっ、かわええーっ」と奇声を発して床に転がり、想像上の幼い者を抱きしめた。ムスッと聴いていたみなもも、思わず苦笑を漏らしてしまう。本当は今の自分を抱きしめたいのだろう、でもそれは御免だし、父しゃんもそこは弁えている。だからこそ編み出された「エアにゃも」だ。
父しゃんのだらしないところが嫌いで、意識的に会話を避けていた思春期だった。でも、父しゃん母しゃんの愛情が自分に――自分を含む三人の子供たちにたっぷり注がれていることは、一度も疑ったことがない。
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食事までまだ少し間があるので、先に自室で明日の準備をしておくことにした。
1階北側の8畳洋間。作り付けのクローゼットから、衣類一式を取り出して点検する。スーツは入学式前に購入して以来数回しか袖を通す機会がなかった。ドレスコードのない大学生としては自然なことだ。しかし、明日から三日間は慣れないスーツで過ごすことになる。せめてもう一着あれば毎日着替えることができたけれど、ないものは仕方がない。ブラウスで変化を付けよう。
澄舞大学では、官公庁や民間企業のインターンシップ(職場体験)に参加した場合は一単位、卒業単位数に算定することができる。もちろん、事前の学内レクへの参加や事後のレポート提出を含めてのことだ。三年生にとって、卒業後の将来をリアルに受け止める機会でもある。
過疎県・澄舞では「就職するなら役所か銀行」と言われる。もちろん単純化した物言いであって条件が良く安定した就職先は他にもあるのだが、新卒採用数と若者人口とのバランスは十分と言い難く、進学を第一の、就職を第二の機会として若者が県外流出しているのが、澄舞の現実だ。逆に秀一のように、県外から澄舞に進学してそのまま就職するケースもあるが、少数にとどまる。
みなもにはまだ、就きたい職業が定まっていない。公務員も選択肢のひとつではあったけれど、澄舞県庁の例で言えば行政職採用試験の倍率は年により3~10倍。秀一のように行政法を専攻しているわけでもなく、昨年すま大から国・県・市町村の公務員試験を受験した者の少なからぬ数が落ちた状況を知っているだけに、腰が引ける。
それでも、秀くんがどんな職場で働いているのか、という好奇心はあった。それが澄舞県庁のインターンシップに応募した最大の理由だった。
澄舞県庁は本庁だけでも10部局67課の大きな組織だ。国の場合は、教育なら文部科学省、道路なら国土交通省など、それぞれが個別の法人である省庁ごとに担当する行政分野が異なる。対して自治体は、ひとつの法人組織で全ての行政分野を担う総合行政を特色とする。そのため部局のバラエティは豊かだ。
しかしインターンシップは基本的に特定の課、または同じ部局の2〜3課で数日間を過ごすことになるため、学生の志望と組織の受入体制とのマッチングが必要になる。
エントリーシートの「希望部課または分野」を書く際、みなもは少しだけ頭を悩ませた。福祉保健、教育、農林水産、県土整備……部局を見比べても、これだ、というものが思いつかない。本音では、政策局広報課なら秀くんがいるので心強いし、秀くんの様子を見ていると仕事も面白そうだ。その一方で、さすがに彼氏のいる部署を希望するのは公私混同に過ぎるかも、という冷静な判断もあった。それでも、何かをPRする広報的な仕事に関心があるのは、嘘ではない。なので素直にそう書いて、具体的な部課は書かなかった。県庁側で広報課をあてがわれたらそれはそれでラッキー、と微かに期待もしながら。
後日、県庁からの決定通知に記されていたのは、広報課ではなかった。
「生活環境部生活環境総務課(消費生活安全室)」
軽い落胆の一瞬が過ぎると、戸惑いがさざ波のように広がった。まず、長い。漢字ばっかりで間違い探しのように目がチカチカする。生活環境。消費生活。うーん? 環境という言葉は、ゴミ処理や地球温暖化対策などを想像させる。でも、生活と消費は、言葉の意味は簡単でも行政が担う仕事がすぐにはイメージできなかった。
「消費者からいろんなトラブルの相談を受けたり、違法な業者の取り締まりをするところだね」
秀一に尋ねると、そんな答えが返ってきた。
県庁一年生の秀一が巨大組織の一部署についてサラッと答えることができるのは、彼が広報課職員だからだ。政策局広報課は、県庁が対外的に発信する情報の集約点、いわゆる情報ハブだ。職員は自然と県庁全体の組織構成や最新動向を知ることになる。とはいえ、詳しく業務内容を説明できるだけの知識があるわけでもない。
澄舞県庁のホームページには、全ての部署のページが用意されている。みなもは消費生活安全室のページを確認した。文字だらけでずらずら縦に長い構成にうんざりし、法律とか条例とか補助金とかの固い説明も眠たくなるばかりだったけれど、なんとなく対象とする領域が分かった気がした。
「気がした」だけかもしれない。いやむしろそうに違いない。明日からのインターンシップを考えると、みなもは不安と期待が入り混じった気持ちになる。
「にゃもちゃん、ご飯できたよー」
部屋の外で歩の声がして、はーい、と答える。
「まあ、やるしかないっしょ」
みなもは自分に言い聞かせるように呟いて、クローゼットの扉を閉めた。
【続く】
--------(以下noteの平常日記要素)
■【累積49h52m】本日の司法書士試験勉強ラーニングログ
実績48分、商法演習問題のエクセル整形をひととおり終える。明日は演習チャレンジだ。
■本日摂取したオタク成分(オタキングログ)
『小林さんちのメイドラゴンS』第7話、安定。『ピーチボーイリバーサイド』第8話、あんま観てなかった。『ゴブリンスレイヤー』第1~3話、本放送は途中で話が分からなくなって切ったんだが、硬派な作りは気になっていたのであらためて最初から視聴。やっぱり第一話がえぐいな。そのえぐさが世界を形づくる。『臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか』7年前の番組、見たような気もするけど確実ではない。ビリーバー番組ではと警戒しながら身始めたけど、臨死体験自体はしっかり「錯覚」の可能性を脳科学のアプローチで追っていた。後半の「意識」の起源の問題、統合情報理論、知らんかった。『サイエンスZERO 脱炭素の切り札 水素エネルギー最前線』ほええ、磁石で低温を作れるのか。