オールアラウンドユー感想文

・福岡に住む祖母のところに来ているのだが、Wi-Fi無しの三泊四日の旅に木下龍也さんの歌集の「オールアラウンドユー」を持ってきた。
インターネットをするにも限度があるこの家だと、夜も早々に寝るか、短歌を読むしかすることが無い。
木下さんの歌集は「あなたのための短歌集」に続いて二冊目だが、なんだか、もう、勘弁してくれってくらい好きになってしまった。


『昔より優しくなった死にたさに「どうしたんだ?」と問いかける夜』

オールアラウンドユー

『生と死が地続きである月の夜に川はやさしい目隠しをする』

同上

『精神が賛成票を入れるたび全細胞に否決される死』

同上

木下さんはこの本でも「あなたのための短歌集」でも死にたさについても度々触れているけど、こういう「優しい希死念慮」って自分ひとり占めにしたい大切で柔らかな部分でもある反面共感してしまうという矛盾が発生するなと思う。
人にあまり話さないプライベートな感情を短歌というたった31文字でくすぐられて気持ち良くなってしまう。
なんでこんな短い文で、こんなにぴったり私の自分勝手な死にたさや死に惹かれる気持ちを表現してしまうのだろうか。
「あなたのための短歌集」も、依頼者ではない私は勿論部外者で、その短歌をのぞき見させていただいているに過ぎないのに、私は依頼者であり、木下さんであり、あなたであり、わたしになってしまう。
私は短歌のことまだ何も知らないのに、こんなにも心揺さぶられてしまうのは何なんだろう。
なぜなんだろうというより、何なんだろうと思う。
 
木下さんの歌集は、読むと誰かと話しているような気持ちになる。
私はまだそこまでいろいろな短歌集を読んできたわけではないのだけれど、短歌を短歌で説明していたり、いくつか複数の作品が連続性を持っていたりすると、どちらかというとエッセイを読んでいるような気持ちになる。
こんなことがあったんだな、とか、こんなふうに考えたんだなという具合に、自分の内側に起こる感情は、まるっきり読書をしている時のそれなのだけれど、木下さんの短歌は大抵一つの作品で完結しているから、そのいわば“発言”に対して、「私もそう思う」「なるほど」「そうきたか」と人と会話しているような気持ちになる。
それがまた心地良くて、さらに言えばこの単なる読書が、私の性格や感情の発露であり自己開示さえしているように感じる。
それでこの本を再度開くとき(既に3週程したのだが)は、その多くは孤独を感じるときや逆にすごく元気な時、体調が悪くて誰とも話せないときだった。
よく考えたら、「あなたのための短歌集」もコロナウイルスに感染して隔離されていた時に読んでいたな。
人と話したい時や逆に自分と話したい時に読みたくなる短歌集を出すって、本当にすごい。どうやって狙ったら出来るんだ。(もちろん木下さんが狙っているかは知らないが)
私もこういう短歌作りたい。寝っ転がってこんな勝手なこと書いちゃいますよ。実際に自分の発露として過不足なく感情に沿って作りたい。31文字で表現するってすごいね。歌人ってすごい。私なんて今日の日記1338文字も書いちゃったよ。もうそろそろ終わりにします。さようなら。

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