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窓の外、窓の内
目がくらんでしまって、noteの画面の右上にある「投稿」というボタンが暗い灰色に見える。
じっと見つめているうちにグリーンの色を取り戻していったが、目がくらむほどなにをしていたかと言えば、バルコニーに出て日光浴をしながら本を読んでいた。
気温14度だそうで、風もないなか、エアコンの室外機に座ってじっとしていると、カーディガンの中がじんわり汗ばむくらいに暖かい。
むき出しの顔をふくめた全身で受け止める日差しの量感は、たっぷりを通り越して息苦しいほどだ。
精神的冬眠生物であるわたしとしては、もう春でいいんじゃないかな?という浮足立った気分である。
バルコニー側から部屋の中を見てみると、灯りをつけていないため薄暗く、なんとなく知らない場所のように見えた。
なんとなく不穏で、どことなく懐かしい。
部屋の内側の空気は、どんなに換気しようと、エアコンで温めようと、本質的には深い水中のようにシンとしている。あるいはひんやりと。
外は明るく晴れていて、大きな通りが近くにあるからクルマの音が絶えず、さっきからずっとカラスが4羽くらいで戯れているし、ひとがしゃべったり笑ったり自転車のブレーキを引いたりする音もしている。
到底、静かとは言いがたい。
それにも関わらず、そのどれも、部屋のシンとした空気には干渉しない。
世界から隔絶された空間。
もちろん窓の外で工事の音がうるさいとか、花粉が舞い込んできてくしゃみを連発してしまうとかあるわけだけども、部屋の本質的な空気は動かない。
それはものすごく安心できると同時に、息苦しいことな気もする。
そして世界は、その隔絶された空間の連続でできている。
心底、不思議だ。
昔、スガシカオが
知らないひとばかりで街ができてるとしたら
この世界はとてつもなくでかい孤独のかたまりだ
と、歌っていた。
実際にこの世界は巨大な孤独のかたまりだろう。
誰も自分の皮膚を越えて誰かと混ざりあうことはできないし、100パーセントの精度で言葉を伝えあうこともできない。
孤独と孤独が壁一枚隔てて肩寄せあった巨大な集合住宅、それが世の中なんじゃないだろうか。
誰のとなりに住むのか誰と肩を寄せあうのかを決めることはできるし、バルコニーに出てとなりとおしゃべりすることもできる。
自分の部屋に誰かを招いたり、招かれたりすることも。
でも多分、どの部屋もひとりで暮らすようにしかできていないのだ。
家族とか友人とか恋人とか関係なく。
一個の生命体であるというのは、そういうことなんだと思う。
薄暗い部屋の中に、腕だけ差し入れてみた。
動かない空気がひんやりしていて、背中にあたる日差しとの温度差に驚く。
わたしには窓から見る外の風景も、バルコニーから眺める部屋の中も、同じくらい愛おしい。
知らない誰かが暮らしている、内部をうかがい知ることができない部屋の連なった風景も。
そんなことを考えていたら、目がくらんでしまったわけだった。
では、また。