失敗レジスタンス
存在と僕の行間を埋めるために文字は存在する、もしそうだったら、文字をたくさん並べれば、それが橋となって僕は存在に近づけるだろうか。
握りしめた石のぬくもり、それは掌の血だ、石は冷たいもん、どくどくどく、僕の皮膚の内側にはあつい血が流れている。
ランチ時、陽射しをかわそうと半裸で作業道の赤土むきだしの斜面に身をかがめる、汗壺に漬け込んだみたくびしょ濡れの服は脱いで日に晒して乾かしている、まるで機銃掃射から身を守る塹壕の兵隊みたいだ、片肘を地面にさして安定させてコンビニで買ったサラダチキンをかじる、少しでも頭を出せば、目線の高さで等高に連なる作業道だから陽射しが容赦なくヘッドショットする、休憩時はなんとしても陽射しは避けたい
おれの脳には膿が溜まっている、後鼻漏、副鼻腔炎の蓄膿だ、そいつらが脳の下部を灼く、自律神経や三半規管にも影響を与え目眩耳鳴りふらつきがある時もある、それでも今月のうちにこの7ヘクタールの草刈りを終えて来月入金してもらわないと厳しいことになる、それにまだ今年で3つも草刈りの現場があるんだ。
9月からは涼しくなって作業効率がうんと上がると見込んでた、それなのに今年は例年の8月くらいに暑いじゃないか、話が違う、出稼ぎの部屋も暑すぎてろくに寝ることもできない、脳の下部を膿で灼かれ、作業道から頭を出すと日射に脳の上部をやかれる、熱のサンドウィッチで脳がやばい、ダメージの蓄積で明らかに例年よりも熱中症になりやすく、一度脳に熱がこもると、なかなか冷めない、今年は熱中症から3回ほど寝込んだ。
っていうかもし現場で熱中症で動けなくなるなんてことが一度でもあればほぼ確実に死んじまう。ここ数日だ、だいぶまえから夏にはお茶漬け出していたのに、夏はリビングから出ようともせず、あぁそうでっか、いただきまーすっつって我が物顔でお茶漬けおかわりまでしやがったけど、やっとその重い腰あげて、帰り支度はじめやがった、夏の背中に塩まいてやりてえ
例年のワークスタイルじゃ身がもたない、7月くらいからこっち、ずーーーっと脳みそが思考停止してるみたいだ、昨日の日暮、6時まで高い山の上で草刈りを振っていて、ふっと気がつけばやっと、やっとのことで秋の訪れを感じた。
待ちくたびれたよ、日曜に雨が降って、やっと来てくれるかな秋は、昨日の仕事帰り、 Big Macのパティ倍、ピクルス、オニオン、サラダ、ソース増量、トッピングにスライストマトを挟んだバーガーを頬張った、一個で充分晩御飯、水で飲み下す。
どこにいても、食い物が全部、アーミーのレーションみたいだ。
この時間だけは少し優雅だ、joy fullでmorning
ほかほか白ごはんに豚汁のセットドリンクバー付き、最初はオレンジジュースを半分炭酸で割るのがお決まり。
いまだにカフェオレとカプチーノの違いのわからない男、多分一方は牛乳のコーヒー割りで、もう一方は牛乳のエスプレッソ割りなんじゃないかと妄想している、そんなことは調べたら2秒でわかることなのに、ここに30秒かけて書くことの意味について5分考えてみる
僕は色々な局面を「たぶん」で生きている、今日もまた停車しているカーパーキングを間違えた、2箇所のうちどちらかに停めるけれど、こっちに停めたのが、きのうなのかおとついなのか、わからない、考える時間をけちってとりあえず一方に歩く、足の向く方向、案の定間違ってる、よし、Uターンして違う方のパーキングへ、ちぇっ、今日は自信あったのにな。
こうやって、僕は日々「たぶん」を鍛えているんだ、どこかでこういったことはADHDの症状だと聞いた、ふむふむなるほど、たしかに、まったく身に覚えのある話だ、あーわかったよ最後まで読まなくても、多分全部当たってるよ、わかったわかったみなまで言うな。
じゃあさ、ADHDって人類にとって貴重だよな、要は失敗する人種なんだ、失敗のプロフェッショナル、みろよ今の世はゴリゴリの合理精神のローラー作戦で、失敗というものをADHDな人種ごと踏みしだき虐殺しようとしている、無駄を省け!タイパ!コスパ!断捨離ミニマリズム!この世から去れ!不要なゴミたち!
俺たちADHDの失敗のプロフェッショナルレジスタンスたちは地下でうようよしているんだぜ、穴を掘り身をかがめ合理精神の機銃掃射から頭を守る、この膿の詰まった脳みそは貴重なんだぜ、おれたちがこの世にエラーコード持ちこむ、失敗のダイナマイトで奴らを動揺させる、コスモスな世界にケイオス思い出させる、ノートは罫線無しの無地が良い、失敗がなければ成功なんてないんだよ、外れてはじめて何が本質かをしる、俺はいつも駐車場を間違えて理解する、駐車場を間違えることの罪の軽さを。
無駄足、骨折り損のくたびれ大儲けだ、この文章から雑味を取払い瑣末な言葉を引き抜いた時俺の魂も一緒に引き抜かれることになるだろう、無駄とは将来の価値、現在の市場では未だ発見されていない価値である、それは新たな市場の発見につながる可能性ですらあるんだ。
同じ商品の流通だけで資本主義が回るだろうか、資本主義は無意味を意味に吸い上げることで領土を拡大してきたんだ、縄文人はソフトクリームをいくらで買う?未知なる価値はその時の市場では無意味なのだ。
まさに無意味だからこそ文を書く意味がある、ほんとうにそうだ、意味があることしかしないのなら文なんて書かないだろう、金を稼ぎに行かんとする現場手前の朝食時にこんな文を書く意味だ。
ルーティンにとってひとつの無駄、無意味を持ち込むことは、劇薬に等しい作用をもたらす、無意味な観点をひとつ増やすことで僕らは意味についてより真剣に考えるだろう。
そんな風に、僕らが生きていることの意味を真剣に考えたくない人種こそが失敗を嫌い、憎み、廃絶しようとやっきになっているんだ、日常にエラーを持ち込むこと、失敗すること、一度脱線して今まで歩いてきた道、今まではまりこんでいた路線に疑念をもちこむこと、それがない人生なんて意識すらない人肉にすぎないのではないかとすらおもっちまう