感動の種子
目を瞑るだけで消え去ってしまう儚い世界の中で
理想を捨て、今日無理のない中でできることを繰り返していく、積み重ねるつもりは捨てて、今日できることを繰り返すことに専念すれば必然積み重なるものだ
去年、僕は仮りの部屋を手に入れた、廃墟ビルの一室で壁は打ちっぱなしのようなほぼ外壁で、廊下も入り口も真っ暗で、エレベーターは昭和への入り口。エレベーター内の緑のふかふかした壁に不穏な赤いシミ。
エレベーターのボタンが反応しない時には、ぐるりとビルをまわって階段を使う、暗いビルの腹の内をのぼる、乾いた音がひびく、さみしいようで、でも反響している音はたしかに僕が母で生じたもので、それが踵から産まれ耳にかえっていくさまがなんだか、あたたかいものを感じる。
手をスリスリした時の音、かすかに生じる熱でふわり漂う掌のにおい、鼻を押し当ててかぐ、音を耳でたしかめる、一過性の僕の名残り。
石井美保「たまふりの人類学」数々のエッセイが素晴らしい、色々な国の中で奏でる精霊たちのふるえる魂の標本ブック、なかで紹介されていた話、デュシャンが単位として提出する、アンフラマンスという概念、それはカタチからカタチへの移行する時に生じるかすかな差異が残す澱のようなもの。
掌をこしこし合わせる時に分泌されるにおいと音、廃ビルの廊下を歩く時に分泌される音、母である僕が萌芽しては痕もなく歩き去っていく様々な分泌物、人が生きるということは、無数の音とにおいを分泌することだ。
音。音楽。YouTube music、premiumで聴き放題。聴き放題のただ中で放置される、呆然とする、聴き放題の音楽室の中モニターになんて入力する?
何を頼りに?あるのはこのちっぽけな脳だ、ひよわな記憶だ、出てくるミュージシャンは何人いる?何人かはいる、それを検索する、ふむアルバムや曲が出てくる、よし、知ってるうんうん聴きたい曲がある、聴いた、ふむ、次は?もう違うことしてる、またべつの機会で、またモニターが前にある、前回の検索のままにまた同じ曲を聴く、そんなことを数年してた、何人のアーティストを聴いただろう、聴き放題のただなかでひとり放置されて、頼れるのはこのひよわな記憶だけで、しかも出てくるのは同じ記憶ばかり。
そうだ、そんなに聴いていたアーティストや聴きたい曲をいちいち記憶なんてしていないんだ、していたとしても、それは最優先のひとりや一曲であり、それは聴き終わったらもう、似て非なるおすすめからきた知らない曲をなんの感慨もなく聴いている日々だ。。。
がちゃ、がちゃん、がちょ、しーーーー、、、
僕はCDラジカセを購入した、ジャンクのリサイクルショップの小棚から美空ひばりのカセットテープを購入した、気になるCDも100円コーナーから集めて10枚ほど買った、音が鳴っている、しっかりとていねいに物質からちゃんと音が分泌している、美空ひばりのビブラートする声が、ちゃんと摩擦として、小型のラジカセから一生懸命歌っている、僕は美しいと思った、音や声や音楽が、心から美しいと思った。
外壁みたいにカチカチの部屋の壁で、部屋の真ん中に楽天市場で買った真っ赤なCDラジカセに単二の電池を6つはめ込んで、カセットを入れて再生ボタンの手触り、1センチはゆうにある立方体のようなスイッチをガチャこんと押し込むストローク、わずかな時間差ですーーーという音、ぽそ、と始まるひばりの美声。
たしかに物質から分泌される素晴らしい音楽、カセットから美声が出るアンフラマンスが出現しまくっている。
YouTube musicスマホ画面のタッチパネルは、タッチ寸前の静電気ですでに反応する、再生ボタンを押し込む力もまったく必要なく、突如始まる、デジタルにどこまでもフラットで、そこでは情報そのものが並列で同価値で推移していく、TikTok、X、YouTube、ゴジラ-⒈0でははじまって数分でゴジラ登場、早送りする必要もなし。
1954年のゴジラはゴジラ登場まで40分くらいはかかった、それは早送りとは真逆だ、能のシテが現れる、わずかな傾斜に重みを感じ橋を渡ってやってくる、あの世から、遅く遅く遅く、遅ければ遅いほどはやくなるものがあるのを知っているのだ、シテも観客も。
力士はゆったりと入場しはじまりを遠ざける、塩をまき、もったいぶれるだけもったいぶる、そして拳が大地についた瞬間にはもうどちらかの巨体が地面に倒れ伏している、巨体がイナズマのように動き決着がつく。
早送りのあらすじコレクターはあらゆる料理からうまみだけをコレクトし、最後には小瓶に入れた味の素をポケットから出して舌の上に振りかける、うまい。うまいだろうそれは、あらゆる前奏を放棄して、あらゆるタイパを回避して、その意義だけを集めて何になる、そうやって人間は自らAIになっていく
感動とはなんだろう、感動は感慨に近い、それを享受できる身があってはじめてそれはおこる、「たまふり」とは痙攣、ドゥルーズは感動は痙攣であるといった、ふるえるためには肉体がいる、反響する肉体があってはじめて感動はバイブスに痙攣することができるんだ。
僕はおもう、結局のところ感動とはこの僕の廃ビルに奏でる自らの足音ではないかと、この両手を擦り合わせてたちのぼるかすかな生のかおりではないかと、それは自分が招き寄せた精霊のようなもの、近内悠太「世界は贈与でできている」において、贈与とはつまり不合理であり不定形であり無意味であること、そしてそこには投資された時間がある、つまり世界から贈与された感動とは自ら捧げた時間のアンフラマンスなのではないか。
時間投資なき感動はありえない、感動には必ず前提として静の中でとぐろ巻く蠕動がある、振り切ったゼンマイが解放される時、感動は動き出すんだ、現代の人々にはこの感動の準備がない、蠕動がない、助走がない、突然の帰結、うまみの収集、結論の収集、イコールでむすびつけ納得という名の忘却そして次へ。
その次の次はなんだろう?疲労なきショート動画への注視、結論のムカデ人間、終わりはじまり終わりはじまり、ピンで突き刺された無数のネタバレたち、他人の考察を脳内にストック、全てがアーカイブであり、肉体はますます失われ、自我が情報化していく、このままいけば確かに人間は死を乗り越える、生を失い尽くしたのなら死を乗り越えることなどたやすい、他者が「感じ」のアーカイブでしかないのなら「その人の感じ」をアーカイブすれば不老不死なんてたやすい、それはつまり不老不死の実現なんてもんじゃない、端的に世界の死でしかないだろう。
山の木は揺れている、日が沈み暗くなっていく、ゆっくりと変化していくけれどその変化は不可逆でゆっくりだからこそ、イナズマのように素早い、現場の日々の中で移り変わる季節たち、太陽がピンポン玉のようにあっちこっち飛び回る、巨大な振り子時計、反復、そしてちょっとした時に胸を去来する感覚に圧倒される静かな夕陽、たまふるススキがかたる世界のことば、ゆれている、停止の中で、静寂と孤独がはじめて語り出すほんとうの物語。
「あらゆるものは動きながら、その時々にあちらこちらで、その動きを止めます。あの輝かしく美しい太陽は、神が歩みを止めたひとつの場所です。月に星々に風、それらは神がいたところです。木々や動物たちはすべて、神が立ち止まった場所であり、インディアンはこれらの場所に思いを馳せ、これらの場所に祈りを向けて、その祈りが神の止まったところにまで届き、助けと祝福とを得られるようにと願うのです」
ベルクソンのこの言葉を紹介する文に出会った時、ぼくもまた立ち止まった、あの美しさはそうか、あの去来する感動もそうか、この体が受け取る感動もそうなのか、大きな時間の流れの部分的硬直、そしてまた時間が流れるさま。
平山郁夫の絵画には時間が描かれている、シルクロードに吹いた風、通り過ぎた無数の民族、文化、人々、精霊、神々、夜に舞い降りる生きとし生けるもの達の沈黙の音色。
数十年ぶりに再生ボタンを押し込まれたカセットテープがまた時間を取り戻す、美空ひばりの歌う声、感動はいつも時間のあとにやってくる、備える、日々のリズムの中で、受け取る、ときおり訪れる硬直の瞬間の中で。
子供達に向かって無尽蔵に流れ込む親の時間、時間、時間、時間のあとでやってくる、もしくは小さな心に積み込まれていく無限の感動の種子たち。。