。なし文
あは、、
振り返れば夏があんなところに、でもまだ夏。だ。
陽射しは帽子を貫いて頭に直接に何か語りかけるみたいだ、それがもうやかましくって本来そこにあるべきはずの思考や思念や情感のようなものたちが、追い出されちまってる。
前に現場を監督と完了検査に立ち会った、現場までは車で行ける林道のどんつきからまだ作業道を15分ほど徒歩であるかないといけなかった、そこで担当の補佐をしていた人が途中突然立ち止まって動かなくなった、みると帽子の隙間からダラダラと汗が流れて目がうつろになっている。熱中症だ。
足は震えて、それを担当と僕で両肩を支えてなんとか下山してことなきをえた。
今年はすでに6月から山の斜面に張り付いて草刈りを開始していた、7月ごろにもいく日かクソ暑い日は経験していて、暑さには徐々に慣れてきていたように思っていた。
けど目の前で人があまりにも突然に熱中症の症状に見舞われている様を見ると、背筋にゾッとするものがあった、なんのプラシーボか翌日普段通り草刈りの作業を現場で開始した、確かにひどい日射ではあったけど、それが帽子を貫通して脳を焼くような感覚。
作業開始して30分も経たないくらいで、これはあかんと思い、沢まで降った、きがつけば服のまま浅い沢に後頭部と背中を浸して仰向けに寝転がってギラギラ太陽をまぶたにぶら下がる水滴たちがイリュージョンさせて、虹色光玉の世界にたゆたんでいた。
はっとしてザバっと起き上がり軽トラで無事帰宅するもダウン3日ほど寝込んだ。6月からの暑さの蓄積が破綻したのかもしれない、目の前で熱中する人を見た恐怖を先取りしてしまったのかもしれない。
というか、っというかと言いたいことが多すぎるんだけど、この文字化した僕を目の前に見るのはいつぶりなんだ?
ぼくはね、ぼくは文章を書いてないとダメになるんじゃないかって心のどこかでおもっていたんだけれど、本当にそうだったみたいで、ダメでした。
もうダメをどれだけ続けたんだろう熱中症みたいだね日射に思考奪われて久しい、今は喫茶店に逃避している、この文を書けている。エアコンが効いている。どこまで文字の僕は説明したのか覚えがない、もっともナウに近い過去日記を読みもせず書いています。
部屋を借りて廃ビルの一室みたいな、詐欺師たちの事務所みたいな部屋、冬はね壁がコンクリみたいで冷たかったの、ひんやりさ。夏はね壁が冷んやりしてええだろうなぁって、能天気でした。
いざ夏が来るとあんなに冷たかった壁がね、あっつあつなの、もうね、陽が沈んでも壁に残った太陽の残像がさ、6面から部屋を熱するの、魔法瓶かよ。
でね、冬はすずしかったから空調の準備もなかったの、だから地獄のように熱い、6、7月はドンキで買ったハンディ扇風機ひとつでなんとか乗り切った、そっからは無理、寝れねぇ現場で熱中症ぎみになって部屋でも熱くて眠れねぇ、はははははは!
って数週間前に書いて数週間振りに続きを書きますもう9月も後半に、、どひゃぁ
いくつも連なるタイムラインもある、最近唯一やってるのはツイッターでそこにもフォロワーさんのタイムラインがあるわけだけれど、それとは別軸の、ほんまのタイムライン。
仕事の工期のタイムライン、カード引き落とし入金の通帳タイムライン、息子一人一人のタイムライン、妻ちゃんのタイムライン、それらを包括する自宅のタイムライン、そこからこぼれて松山出稼ぎ部屋での父ちゃんのタイムライン、それら全てが横並びに秒を刻み並列している恐ろしさ。
よそさんの時間をかんがみてる間に、自分の脳内のタイムラインがすっかり抜け落ちてしまっている、思考を奪う日射とコロナ後遺症、上咽頭炎か副鼻腔炎かのブレーンフォグ、そしてあらゆるよそさんのタイムライン
なるほどこうやって自分というものを見失っていくんだな、という省察があるうちはまだ毒。
振り返らなくなった者にとっては、自分の脳内タイムラインが失われていることなど苦でもなんでもないに違いない。
わずかながらの自我というようなものがあるから、こうやって文を書くことができるんだ、文を書くことから遠ざかってしまい、さらに想いは募る、文を書くことの大切さ、自分の日々の断片を手繰りよせ、即興で編集することの大切さ、それはまさに自分を取り戻す編集の工学なのだ。
あらゆるタイムラインの濁流にのまれ流される中で失ってしまうのは思い出の断片、それぞれの擦過していった出来事が香りを放つのは思い出すことによってだ、流される中で僕らは半歩未来に鼻フックされて引っぱりだこになる、振り返ること許されない中で僕らはなんとなくの有機体、自分というカタチについて考察を失いとりあえず動的に動く線になっちまってる。
散歩中いやいやのポーズでうんこ座りに踏ん張って首輪がぐいーんってなってライオンみたいなってるゴールデンレトリバーちゃんみたく、一度タイムラインにいやいやすること、文を書くこと、ひとつひとつを振り返りアレンジしていく、書くといっても、それぞれは過去の身体的摩擦だ、書くたびに僕らは自分自身の過去に浸る、そして全身の状態を現在に呼び起こす。
書くということはきっと、ここに自分を召喚することなのだ、呪文を唱えて出よ我と出した自分というポケモンがこの文章なのだ。
なのでたぶん、今の僕には決定的に抜け落ちているのはこの自分という名のポケモン、これはまさに自分という総体、総体を失いつつも現在から未来をツカツカと歩き去っていこうつするあいつは一体誰やねん、あいつ、ツイートしてるあいつ、自撮りしてるあいつ、工期間に合わせようと草刈機振るうあいつ、誰やねん?
問いはいつだって自分に向けられている、おれはおれに聴く、あいつだれやねん?と、だから俺たちは表現に手を伸ばす、それでも掴もうとする問いの答えである自分が指先でこぼれ落ちる、それをキャッチするためにこそ、表現を変えてあらためて問う、あいつ誰やねんを絵で描いてみて問う。
そいうったことを一切していなかった、こんなにも自分から離れたことはないだろう、そして多分こうやって書くことがまた次いつできるかはわからない、だからきっとこの文は自分に向けた手紙のようなものだ。
ここにしかいないおれがいるよってこと、久しぶりに目が合ったね、そっちはそっちで大変そうだよな、わかるよ、毎日それなりに限界なんだよな、自由ならある、自由とは支配からの脱却、それを叫ぶうちは楽しい、その時はまだ束縛されているから叫べる「束縛からの脱却!」もし実現しちまったらどうなると思う?
自分を自分が支配しなくてはいけなくなるんだ、そして支配する自分と喧嘩しないといけなくもなる、ひとつ次元を超えてもう一度叫ぼうか『束縛からの脱却!』ってね、この束縛は自分が縛る自分のことだ、何も考えずに歩くのは簡単だ、でも歩き方をひとつひとつ自由になって考えてそれでもなお歩こうとすると途端に難しい、ひとつの宇宙秩序が破壊されたカオスの中でまたふたたび歩くという秩序を再構築することの徒労感!
そろそろ現場に行くよ、ちょっと文章のルールを変えてやっていけないかな、途中でいきない終わっても良い。という感じで書けば書けるんじゃないか、なぜなら日記とは昨日明日をつなぐプロセス、プロセスに「。」はいらない、続いていって途中でおわるそれでいい