イノセンス
押井守監督 イノセンスを見て。
作中引用された、斎藤緑雨の鏡論、球体関節人形の造形をさぐる、ハンスベルメールの人型のナチス優生学への反論、少女の人形遊びとは何か?という問い。
作中の「鏡とは悟りの具にあらず迷いの具なり」
というセリフなんかは、インスタ美容整形系女子なんかを垣間見るにまさに当てはまると思う。
自分とはこれであるという鏡の証明が、むしろ、こうではないはずであるという自分のあるべき姿を映し出し、整形によって整える。というプロセスは人を正体から果てしなくズラしズラし迷わせていく。
そこで僕が行き着いたのはラカンの鏡像段階論、幼児が鏡によって自分という像を学習するプロセスを考えるわけだけど、自分が自分像を知る前の自分イメージとは何か?ラカンは鏡によって奪われるイメージということを考えた。人が人型になってしまうことによって失われるもの。
これは僕自身、自分を知るということに対して警戒して生きてきたので、腑に落ちるところがある。
筋トレマンも同じく鏡が好きだけど、自分の正体を理解したいわけじゃない、鏡は自分の理想のイメージを投影するための装置のようなものだ、鏡が与えるのはむしろ、コレから逃避したいという、コレ、脱皮すべき自分、ひょろひょろな自分、不細工な自分。。 何故人は鏡の向こうに理想の自分を想定するのだろう、何故その理想の自分というものが頭の中のイメージとして実在するんだろう、ムキムキな人、美人という自分ではない誰かに自分の理想を求めるんだろう、、 人は鏡によって迷わされるがために鏡を欲するのではないか、問題はその鏡を経由した迷いがボディビル的ムキムキ、整形的美女という、社会記号化したモデルに原理的に統一されてしまうということではないか。
人は悩み葛藤し修行や旅に出て、そして多様な自分になるべきだと僕は思う、鏡の自分を憎み、モデルの誰かになるのではなく本当の自分という曖昧な答えを自分で肉付けしていくべきだと思う、理想が実在してそれを追う、というプロセスはあまりに画一的だし、偶然性を省くことになってしまうが、人生のお楽しみのほとんどがその偶然性からやってくるのではないかしら。
赤ちゃんがまだ鏡を見たことがないような自由で柔軟な自己イメージを大人になっても片隅には持ち続けていたい。