じぶんの言葉
言葉をさがしている、身の丈にあった言葉、、いや、、自分をほんの少し前に進ませてくれる、、
内側からふっと外側にやわらかく、おおきく膨らませてくれる言葉を
リハビリをしている、頭のリハビリだ、、今こうやって文字を入力しながら、、
手探りで言葉を手繰り寄せては文にあつめる、、
「大洋に浮かぶ言の葉を藁にもすがるおもいで寄せ集め小舟を編んで旅に出ること、、」
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chat GPTというアプリをとってみた、文字で返答してくれるAIだ。
会話をしてみる、、
まず、僕が問うた質問はこうだ。
これからAIがたくさんの音楽や動画を作ることになる、それは人間がつくるよりはるかにすごいスピードで生成しまくるだろう、例えばYouTubeの視聴ランキングの上位10位のうち7割くらいはAIで生成された動画が並ぶ、そんな時代がくるだろうという話をきいた、けれども僕もsuno ai というサイトで楽曲を歌詞と雰囲気を伝えるだけで作ってくれるサービスを利用するけれど良い曲を選別するには10曲くらい一気に作ってもらって、それでオッケーという訳にはいかない、あとにはその10曲を聴きまくるという工程が残る、10曲を聴きまくり、2、3曲絞り、これをまた聴きまくって比較して、ほとんど差を感じないながらも1曲決定する、ここでは10曲生成することは簡単だけれど、人間がそれを良いと思うもの、くわしくは「皆んなが良いと思いそうなもの」を選ぶ工程に大量の時間が必要になる。さらに商品にしたり作品としてちゃんとしたものにするつもりなら、そこに部分的な改良やAIによる文字の読み上げの修正など多岐にわたって時間を要するだろう、AIが進化すれば生成される精度もスピードも増すだろうけれど、人間の比較検討する時間が必ず必要になるから、それがネックになってAI作品が大量に出回るというわけでもないのではないか?
以上のような問いをぶつけると、長文で1、2、3、と文節を分けて僕にプレゼンしてくれるchat GPT、そんな会話が刺激的だった。
AIとの会話の中で僕がAIに向けて書いた内容を要約するとこうだ
人間がしっかり自分という主体を持ち、AI作品を吟味する、非AI的な感性を維持できてたとしたら、この現代のAIと人との関係は続くだろう、、けれど、僕が危惧することは、AI作品があっさりと受け入れられてしまう世界線がやってくることだ。それはAI作品が非AI的感性を有する人間の感性を揺るがすような作品にまでクオリティを上げることではなく、人間が非AI的な感性を失い人間としてのクオリティを下げることで、AIに近づいてしまうことだ、もし人間が非AI的でなくなることになれば、AIは人間に受け入れられる作品をばんばん投入することができるのではないか。
まぁこれらの問いに対してAIの返答は、想像の範疇を越えることはなく、人間性を大事にすることで云々の説明に終始していた。
例えば現代のプリクラは恐ろしい、スマホカメラの加工メータをフルスロットルで引き伸ばした顔面がそこにはある、僕はこういうフル加工された目ん玉くちびる人間を「親指タイタニック顔」と読んでいる。
けれどもちろん需要なく、プリクラがそんな加工された顔面をこちらに送り返してくるわけがない、ギャグではなく、間違いなく一定層の人々はこの親指タイタニック化された自分を当たり前に受け入れるということだ。ここには非AIである人間が当たり前にAI加工された自分を受容するという現実がある。
親指タイタニック顔と呼べるほどこれらの顔はそれぞれよく似ている、たとえばそれぞれのナチュラルな顔面をAIによって作成するのは難しいだろうけど、親指タイタニック化されたその人の顔面をAIによって生成することはとても簡単だろう、その親指タイタニック化された顔を1人の人物と認知するなら、それらの人々が活動する生成された動画が認知されるのも簡単に違いない。
以上のような推移で、人がAIによる生成された作品を受容していくことがあり得ると思う、それは考えてみると恐ろしいことだ、人の認知、他者の顔への解像度が下がり、言葉や景色に対する解像度が下がり、そこに流入していくAI生成言語、映像、音楽の洪水、そしてまた人間の認知はAIの提示する世界に協調していく様はマトリックスの世界へまっしぐらだ。
やり取りの最後にAIがあなたはどう思いますか
と聞いてきて、僕はこう答えた、以下引用
僕は自分の日々を体感し、言語の外の肉体的な労働によって生活をしている、非言語的な労働と、家に帰っては文章を書く、情報を自分が思うカタチにまとめるような文ではなく、非言語的な肉体的感覚を文章に表現できるように苦心しているよ、それは自分が自分であることを証明するために言語において悩むというようなことだ、そのことがすでに人間の能力であると思う、また僕は非言語的な領域を大切にしてる、感じてもすぐ言語化はしない、僕が言語化(文章を書く)する時気をつけてるのは、筆舌に尽くしがたいことこそ書くということだ、そのような修行めいたことを深めることこそがAIに自我を保つ根幹にまで入り込ませないためにやっている工夫だと思う。。
また別の危惧もある、人々が非AI的な能力を失いAIに近づくにつれてAIを使う側の資本家やインフルエンサーによってコントロールされやすくなってしまうということだ、ツイッターのように、マスクが簡単にトランプをリツートするだけで大勢が動く。
ちょっとした言語情報に過ぎないが、言語は人々の根幹を成すものだ、この世は言語でできているといっても過言ではない、天動説から地動説に変わった時には、人々の「感じる感じ」を変化させただろうと思う。
世界は信の上に立つ、この信を人は信じることができなくなっているから信の方へ説明を求め納得してはじめて信を信じる、SNSに溢れる説明たちはそれぞれの信のクラスターを生み出し分断を強化している、この無数の信のクラスターは言語から生じるけれど、それらの言語を生み出しているのはSNSという言語と記号が等価なネットワークの中だということは気をつけたほうがいい。
人は直接人と会って言葉を交わす、AIとチャットするのも言葉で、自分で自分を説明し自問自答するのもまた言葉なんだ、言葉は等価な言葉だという意味において主体を流転する、AI、人、SNS上の人、BOT、インプゾンビ、全てが言葉を発しその言葉によって人は信を築く。
やっぱりここで大切なのは非言語化の領域なのではないか、わからないこと、縁、自然、無知、体感、触感、風、衝動、わくわく。
人間とは、非言語的摩擦世界、有限でその内に死を内包する不確定な存在、はかなさがあるということ、明日会えないかもしれないから今日伝える言葉、意味のない挨拶、目配せ、それぞれのちょっとした思い込み、思い切って伝えてみた時の失敗、恋と失恋。
あらゆるところに権力を探し有能であるが故にまたあらゆるところに権力を見出してしまうフーコーのように、危惧もまた深めれば深まる、言語ゲームを中断せざるをえないような断絶の摩擦、絶景との出会い、蜂に刺されること、転落すること、そして正気に立ち戻ってまた、自分の「感じる感じ」を見出すために歩きだす。
人間とはきっとそういう言語と非言語をバランシングするホメオスタシスなんだろう。
AIについて語ろうとすると上記のように、とってもAIっぽい文章になってしまう、ミイラとりがミイラになってしまうもの、何かを説明しようとするといつもこうだ。
数日前にはまったわだちを説明しようとするとこんな風になった、言葉の罠は無数にあるから、一度言語から断絶し、アホになった頭で詩をつむぐことが大切だろう
ツイッターの皆んな今日のつぶやきの中で詩をつむぐようになれば良いのにな
文を書く時、風を想う、夕暮れまで働いて日が沈む頃に顔にあたる柔らかい風、それをどうやってここで書こうかって考える時ぼくは、ことばと世界の境目に立っている
8月に熱中症ぎみになってダウンして、すぐに起き上がって仕事をし続けた、休む余裕が財布にない、9月には柔らかくなるだろうと期待した陽射しは一向にその凶暴性をゆるめることなく僕の脳を焼き続けた、生卵がゆで卵になっちまったらもう戻らないらしい、僕の脳もまたなんだか状態が戻らない、未だに陽射しがきつい、というか涼しくなるにつれ日射の蓄積がピークすれすれでちょっとの陽射しにくらくらしてしまう。
蓄膿も悪化する、あと少しでこの現場が終わる、こうやって何かを書くこと、書くことは茹で上がった脳みそをもう一度再構成するのに役立ちそうだ、あと少し、まだ遠い、見渡す限り広大な山と対峙する日々、どうやって生き抜くかそれしか考えてない、生存というよりは、生存の条件を揃えてくれるであろう金銭のために生きている、貧しさはまず思考を貧しくする、全てのせいにしたくって左側にぶっ倒れたくなる気持ちもわかる、それでも僕はこうやって文字を書き、身体の生と同時に精神の死にも対抗するんだ。
書くこと、思ったことを思い出し、書くこと過去をなぞる、過去に触れた風もまた文字としてなぞること、そうやって自分に自分を上書き保存しないことには成立しない生存というものもあるのではないか。
もう少しなんだ、現場は今月仕上げたかったけど、とにかく安全第一で陽射しを避けて、昼から現場に入り暗くなるまで作業する、日が暮れてやっと体が安心する、もはや太陽アレルギーだ。
労働の隙間にイリナ・グリゴレの「優しい地獄」
を読む。
今日も文章を書きたいと思ったきっかけになる素晴らしい節があったので引用させてもらう
「『雪国』を読んだ時「これだ」と思った。私がしゃべりたい言葉はこれだ。何か、何千年も探していたものを見つけた気がする。自分の身体に合う言葉を。その時、すべてがつながった。映画監督になりたかった「田舎から出た普通の女の子」として受験に失敗し、秘密の言葉である日本語を思い出した。「映画」で表現できないなら、きっと新しい言葉を覚えたら身体が強くなる。日本語は、私の免疫を高めるための言語なのだ」
書き写すだけで涙がでそうになる、ぼくの2つ上の39歳ルーマニアで生まれ両親は街で働き田舎暮らしの祖父母に育てられる、土に触れる幼少期2歳の時チェルノブイリが事故を起こし、被爆に気づかないまま過ごす。後に脳に腫瘍が見つかる。。
そんな彼女が書く文章は支離滅裂ながらも感情は真っ直ぐと伸びていく、その感情が滅裂する言葉たちを強引に牽引するんだ、雪国を読み映画を学びたいと決心すること(そこにはどんな感情のジャンプがあるんだろう)そして探していた秘密の言語を発見する、きっと身体が強くなる免疫を高める言語。
なんて美しく力強い言葉だろう、手に入れる前から確信する言語、希望、故郷のキバに身体を破壊されることはどんなに辛いことだろう、そして言語に救いを求めること、祈りにも似た感情で。
脳の腫瘍ではないが、熱中症でぼーっとする頭で文字を書くぼくもまた未来の言語に救いを求める、このまま書きまくればいつかどこかに辿り着けるのではないか。