呼吸基地
僕らには呼吸基地が必要だ、心がせいて次のToDoのところてんの水圧を常に背中に感じながら、それに抵抗する形でなんとか保つ体幹の中で、肺は小さく最小の大小で生存を留める。
やることをやる、やることをやる父がこのようにして、母がこのようにしてToDoのところてんの水圧を背中で受けながらなんとか確保しているバランスの中で、子供達は健やかに育っていく、たくさんの成功体験と失敗、泣き笑い感情を爆発させる余地を父と母が諸行無常の圧力に抵抗することで、なんとか確保しているんだ。
僕は自問する、楽になる方策を立てるその方策はどれも若干の遠回りを要し、その遠回りをする余裕がないからこそコンビニで弁当を買ってしまうのだ、これが貧しさか、と胸に去来する時がある。
大自然を相手取って無事帰ることを毎日続けるだけで全ての生命エネルギーが必要なのに、社会が要請する細々なミッションをクリアしつつ子供達に余地を残し続けなくてはいけないこと、自分がいっぱいいっぱいなのか、まだまだやれるのか、その両方の感情に日々揺れている。
おれはサボっている、もっと勤勉にやれ。おれは頑張りすぎている、もっと自分を甘やかさないと、個人事業主に答えはなく、家族がなんとかやっていけていたらそれが答えだから、その答えがありさえすればあとはなんだっていいのだけれど、そのプロセスでいかに家族みんなの総幸福量を高くするかを考える
でもちょっと待て、それもこれもToDoじゃないかまだリストの上辺に積み重ねようとしているのか、テトリスは山積みで何も考えずにクリアしていけるようなルーティンを少しでも少しでも作ることが大切だ。
起きるのが昼前になってきている、どうも体調不良もあったり天候不良もあったり、それでも少しの無理をして仕事を続けていたからか、体の芯が疲れているように感じる。無意識で朝起きれなくなり、動きの始まりのヨイショが遠いと感じたのならそれは疲れているんだよ。
真っ直ぐ投げたストレートボールもやがて弧を描いて距離を失いながら前に出ようともがく、もがいているボールは自分を奮起させようとしていたって、はたから見たそれは放物線を描いて落ちていくように、現場完了のゴールを目指して、体調不良も天候不良も関係なく続けていたら気がつけば1日の作業量ががくんと下がっていることに気がつけない自分がいる。
孤独な人間には文章が必要だ、生きる自分のそばに書く自分をそなえておくこと、そうでなくてはストレートボールを見る人はいない、落ちきててもスピードを失っていても、前に向かおうとする気持ちに変わりはないから、その変化を見逃さないためには見つめるもうひとつの目が必要なのだ。
僕の仕事を客観的に判断する人もいないし、そのような観点すらない、1人で山やってその進捗やペースを教えてくれるものは何もない。ただ僕の書くこの文章だけは僕を見ている、忠実に自分の心にマイクを向けてその微細な呼吸の音と心音とつぶやきを拾ってここに永遠の文字として刻んでいく。
この書くと同時に刻まれる文字のたしかさ、繊細で移ろい変わる心の様相とはちがって確かにこの文字は消えることなくここに残っている、刻むこと、抽象的なこの生が物質を可能にすること、ここには確かな空間がある。
久しぶりに書いてやっぱりそう思う、あらゆることを書いた、今まで。何を書いているかというと、その全てが書くこと、文章が書けるということへの賛美なんだ。生きるということ生きてるという抽象、でも具体的にこうやって言葉を紡ぐことができる。
ここには僕の最もくつろげる部屋がある、人にはそれぞれにここでなら気兼ねなく呼吸ができるという場所もあるだろう、この文面の上では僕はたくさんの酸素を、それに含まれるあらゆるコロンを吸うことができる、原子が、匂いが、細胞が、感情が、家族への愛が、過去への郷愁が、故郷の匂いが、未来を見定める視線が、書く力になってくれる。