美という感覚/ 「美の認知神経科学」と「神経美学」によるアプローチ
引用元: 公益社国法人日本心理学協会
機関誌 心理学ワールド81号
執筆者: ロンドン大学ユニバーシティカレッジ生命科学部 シニアリサーチフェロー
石津 智大氏(いしづ ともひろ)
芸術ときくと,まったく興味のない人もいるかもしれない。
ところが,しばしば芸術と同じ文脈で取り上げられる美はどうだろう。
美はどこにでも立ち現れる。海の日の入り,お気に入りの絵画,好きな人の顔。見た目だけの話ではない。心根の綺麗さ,友情の美しさ。善行や正義を美徳としない文化はないだろう。
このように多様な対象を貫く「美」という感覚。これがわたしたちにどんな意味をもっているのか,脳機能画像法を利用して研究している分野がある。神経美学(neuroaesthetics)だ。
美学的体験の脳機能や,芸術的創造性に関係する脳の仕組みを研究する認知神経科学の一分野である。
誕生から10余年の比較的新しい分野だが,美学的 体験や芸術についての認知神経科学・心理学的アプローチは各国の研究機関でも重視されている。
現在,欧州と北米を中心にUCL,マックスプランク研究所,ニューヨーク大学,UCバークレーなど主要大学・研究機関において研究講座が開設されている。
2018年からはロンドン大学ゴールドスミスカレッジ心理学部で,正式に当分野を修めることのできる修士課程コースも開講し,今後さらなる展開が期待される。
知覚・認知と美学的体験との関係を科学の対象として研究した最初の試みは,19世紀末頃のフェヒナーによる実験美学に端を発する。
複雑な感性的体験を一つの変数で説明し,共通の要素をみつけることで,多様な感性的体験を定式化しようと試みたのだ。
しかしフェヒナーにとってより重要な目的は,刺激への反応の背後にあるであろう神経活動との関係性を説明することであり,それは心理物理学と実験美学のひとつの目標でもあった。
非侵襲の脳機能画像法と認知神経科学の発展により,現在その実証性の理念は神経美学に引き継がれたといえる。
ここで気をつけたい点は,芸術と美学的体験との関係だ。美醜や崇高さなどの美学的体験は,芸術作品だけでなく幅広い対象から受けうる。
逆に,芸術の鑑賞と創作に関係する体験・認知は美学的体験だけに限定されるものではない。
双方は密接なつながりがあり重複する面も多いとはいえ,区別する必要がある。ゆえに神経美学のカバーする領域は大まかに図1のような下位分類となる。
美学的経験についての認知神経科学的・進化生物学的研究と,芸術認知・創作についてのそれだ。
本稿で紹介する美についての認知神経科学的研究はおもに前者に含まれる。
◻️視る美と聴く美
「美しいと思うものをいくつか挙げなさい」と言われたら,みなさんはどう答えるだろう。
「美しい」という形容詞でくくれるものは,人それぞれいろいろな答えがある。それに,わたしが美しいと思う絵を,もしかしたらあなたは逆に醜いと感じるかもしれない。
このように曖昧で定義を与えることがむつかしい「美」という感覚だが,それと同時に非常に身近な概念で,わたしたちはそれをよく知っている。
美しさと聞けば,「良いもの」であり,「快いもの」であり,「価値あるもの」であり,「醜さと対比されるもの」である。そして,美しさが呼びおこす気持ちや価値を知っており,理解している。
つまり,美しいと感じる対象があなたとわたしで違っていたとしても,わたしたちが美しさに対して抱く心的状態は似たものになると考えられる。
フェヒナーたちが多様で曖昧にみえる審美知覚のなかに一定のルールを見出そうとしたように,神経美学が最初にとりくんだテーマのひとつは,様々な対象から得られる美という心的状態に,特定の共通する脳反応が関係しているかということだった。
では美の体験に関係する脳活動は,どのように調べればよいだろう?
基本的なfMRI実験では,特定の感覚刺激や心的状態(ここでは美や醜の体験)において,fMRIの信号強度に差が出る脳部位を調べる「脳機能マッピング」という手法を使う。
可能な限り視覚特徴(主題,輝度,構図など)を統制した刺激群(たとえば絵画)を用意し,実験参加者に主観的に美醜の強度を回答してもらう。
そして,その心的状態(美しさや醜さの体験)の脳活動を記録する。その二つの脳活動の対比を調べれば,美しさの体験に相関する活動を得ることができる。
肖像画,風景画などの具象絵画を使った研究が行われた結果,美を感じるときの脳の活動がわかってきた。
前頭葉の下部,眉間の上あたりに位置する「内側眼窩前頭皮質」とよばれる部位の活動である(図2)。
ここ10年あまりの研究と再現実験によって,美と内側眼窩前頭皮質の関係は,具象絵画だけでなく,抽象画,写 真,彫像,自然風景や建築物,顔刺激,また点の運動や色パッチといったより抽象的な刺激まで,幅広い視覚カテゴリで確認されている。
美という曖昧できわめて個人的な体験が,脳のはたらきを調べることで特定の限局した脳活動,内側眼窩前頭皮質の活動,という一つの客観的な共通性をもっていることがわかったわけだ。
ところで,絵画などの視覚芸術から得られる美の体験は,音楽から得られる「聴く美」の体験とはまったく異なるように思える。
しかし,研究からは音楽的美も視覚的美と同様の脳反応がみられることがわかっている。
音楽と視覚芸術,異なる知覚モダリティに生じる二つの美が,その違いにかかわらず共通の脳部位を活動させることは興味深い。
内側眼窩前頭皮質の活動が,美という心的状態においてソースに依存しない「共通通貨」として機能している可能性がうかがえる。
共通の尺度があることで,異なるソースから得られる多種多様な美の体験の間での比較や交換が実現されているのかもしれない。
これらの研究は,もちろん刺激のどんな特徴が美しさを呼びおこすのかという問いには答えられない。
しかし刺激の具象性に依存しないだけでなく,視覚・聴覚など知覚情報を運ぶメディアの違いをも超えて,美の体験という心的状態に特定の限局した脳部位が関わっていることは間違いないだろう。
◻️視えない美
美の認知神経科学の重要な成果のひとつは,善行や正しさといった「善」や「真」に見出す美の感覚でも,視覚や聴覚の美と同様の脳反応がみられるという発見だ。
例えば「他人を助ける行為」は,美しい行いであると誰もが賞賛するが,そこに「物」としての形があるわけではない。
道徳や友情は,こころの内にある美しさなのだ。これまでの研究で,このような道徳に見出す美も,顔などの外見的な美と同じく,内側眼窩前頭皮質の活動を生じさせることがわかっている。
心根の美しさは,相貌や,色の組み合わせ,メロディーなど物理的な特徴をもたない,目には視えない不可視の情報だ。
このような,視えない 美に関するものは,倫理観やものごとの正しさといった,人間性の根幹にかかわるものが多い。
「美は善である」という考えは,古代ギリシア哲学の「カロカガティア」まで遡り,現代心理学でもその関係性は実験的に証明されてきた。
「美は善,醜は悪」というステレオタイプはヒトの認知に組み込まれたバイアスなのかもしれない。
この結果からは,美と道徳とのつながりも連想されるが,実際この部位を損傷した患者は,道徳的判断が適切に行えなくなることも報告されている。
◻️やわらかな美
10余年の研究を土台として,神経美学は単純な美との対応関係以上の領域へと踏みこみ始めている。
美は,一般的には極めて主観的で個人的な体験だと考えられている。しかし,そこに「作品の価値」というものがあるとして,それは絶対的で変わらないものなのだろうか?
例えば,美術館で感動した『睡蓮』を,もしも裏通りの小汚い露店で見かけたとしたら,あなたは同じ絵を同じように評価できるだろうか?
これまでの研究からは,それが非常にむつかしいことがわかっている。
作品と無関係の,まわりの環境や情報(文脈)を知ることで,わたしたちが作品から感じる価値は簡単に変えられてしまうのだ。
二つの似たような抽象画が目の前にあることを想像してほしい。片方はルイジアナ近代美術館というデンマークにある現代アート美術館の収蔵作品で,もう片方はそれに似せてコンピュータグラフィックス(CG)を使って作成したものだ。
参加者はこのペアを見比べて,美的に優れているほうを選ばなくてはならない。おわかりかもしれないが,二つの絵画はじつは同じものだ。両方とも同じアルゴリズムによって機械的に作り出されたCGである。片方に実在の美術館収蔵,もう片方にCGと,違うラベルを付けたにすぎない。
それでもこの課題では多くの参加者が,美術館の収蔵作品だと思い込んでいるCGのほうを,美的に優れていると評価してしまう。ラベルから得られる文脈の情報に,作品の美的評価が影響されたのだ。
この際,美の体験に相関する内側眼窩前頭皮質の活動も,美術館ラベルのCG により強い反応を示す。
文脈による影響は,作品の真贋や他人のクチコミなどでも現れるが,これらの効果には個人差がある。
例えば,美術史学者などの美術を専門とする参加者ではみられなくなる。この差に関わっていると考えられる脳部位が,「背外側前頭前皮質」である(図2)。
ヒトで特に発達している大脳新皮質で,知覚情報の統合や衝動性の制御に関わっている高次脳領域である。「誰の作品なのか」「どこの所蔵なのか」といった文脈情報を知らされても,自分の意見を保ち続けられるヒトの脳内では,この部位が活発に活動していることがわかっている。
反対に,文脈の情報によって自分の意見を簡単に変えやすいヒトの脳内では活動がみられない。面白いことに,その際,背外側前頭前皮質と内側眼窩前頭皮質との機能的な結合が強まることも報告されている。
研究者たちは,背外側前頭前皮質が内側眼窩前頭皮質の活動を調整することで,作品に直接関係のない情報の影響を抑制しているのではないかと考えている。
それが美的価値に対する意見に,ひいては専門家の審美眼に貢献しているのかもしれない。
わたしたちが芸術の価値とよぶもの。それは作品自体だけではなく,それがどのように示されるか,どんな出自なのか,といった情報をも勘案し修飾され,柔軟に形づくられていくものといえる。
◻️おわりに
美を論じるとき,わたしたちは多くの場合,芸術の美を念頭に置いてしまうが,ここで紹介してきた研究からわかるとおり,美の感覚はヒトの行う判断全般にひろく立ち現れるものだ。
自然にも,人間にも,道徳にも,生き方にも。そして,わたしたちが直面する多様な選択において,その判断材料となる決定因子としての機能があると考えられる。
その判断は,「正しさ」や「善」に関係しているのかもしれない。「真・善・美」とは,ヒトが理想とし追求する価値だ。
ここで論じたように,ヒトには美と善を結び付ける認知的バイアスがある。その点で,美の体験には,ものごとの「正しさ」や「善」を判断するための,ある種の情動的な情報を媒介する機能があるといえる。
何が正しく,何が善であるかは,その時々の状況や社会的文脈によって移り変わっていくものでもある。
美の感覚も,文脈に修飾され動的に形づくられる柔軟性をもつ。そしてそれは内側眼窩前頭皮質を中心とした美の判断の脳内ネットワークと,背外側前頭前皮質などの高次脳領域との相互作用によって実現されているのかもしれない。
本稿では美の神経美学研究を紹介したが,神経美学はこうした方向のみならず,図1に示したように美以外の美学的体験の検討や,芸術認知についての研究も活発に行われている。
しかしながら,美学的体験や芸術の認知神経科学研究に対しては,様々な批判があることも事実である。
ひとつには,脳の機能という一面から考察しても包括的な理解は望めないということだ。
それゆえ,美と主観性の学問を定性的なアプローチの状態にとどめおくことが,これまで暗黙的に科学でも人文学でも諒解されてきたと言える。
だが,ここで紹介した脳機能を可視化する研究の知見からわかるとおり,美の体験は,やはり物質としての脳の活動と対応関係をもち,また脳活動への人為的な介入や脳損傷によっても変容し得るものである。
その面で,美の体験について物理的に測定可能な客観性を認めることによって,その理解と議論を深めることができるはずだ。
そのようなアプローチは,美学や美の哲学を扱う人文学の観点からは忌避されることが多いかもしれない。
だが,経験主義からの実証的アプローチは,人類にとって美とは何であるのかを考える上で,たとえ小さくとも,ひとつの助けとなるはずである。
超越的な美という概念は,実証的な現代美学理論では扱われなくなった。それでもヒトはそれを感じることを止められない。
わたしたちが感じている,力強くも曖昧なこの感覚は,「美」という名を与えられる以前から,わたしたちの主観性のなかに確かにあったはずである。
神経科学は,重なりあうベールの向こう側に在る「それ」の,ただ一端を垣間見せてくれるだけかもしれない。
しかし,心的状態の計測という技術は,かつてフェヒナーが見透かすことができなかったベールのひとつを開くことができるだろう。
以上