「無我」の意味
仏教の教えの三法印※の一つである「諸法(全ての存在)は無我である」と、「無我」が説かれているように、この言葉は仏教において非常に重要な用語である。
※三法印(さんぼういん)は、仏教において三つの根本的な理念(仏法)を示す用語である。
◻️三法印における「無我」の意味とは?
私たちの日常用語で無我といえば、無我夢中とか、無我の境地などという言い方で用いられているのが普通である。
無我夢中といえば、例えば、我を忘れて夢中になって勝負事に没頭する様子などを表している。
無我の境地といえば、私心なく執着を離れた無心な心の状態を表している。
このように、無我という言葉は、忘我とか無心という意味で使われているのが普通である。
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しかし、これらは仏教で説かれる無我という教えの本来の意味ではない。
確かに仏教は執着こそが苦悩の原因であるとして、それを離れることを説く教えである。
しかしその場合には、我執(自身に対する執着)・我所執(所有欲)の否定という全く別の用語が用いられる。
どちらにも「我」という語があるため混同しやすいが、そのサンスクリット原語は全く別である。
従って、無我という言葉によって、執着の否定を意味する忘我とか無心が説かれているわけではない。
それでは、仏教で説く「無我の真の意味」はなんだろうか?
インドの宗教では、自らの善悪の業(行為)の報いを受けて生まれ変わり死に変わりを繰り返すという業報輪廻転生が説かれている。
その場合、過去世から現在世へ、現在世から未来世への転生を可能にするためには、身体が死滅しても、消滅することなく存続する霊的実在が必要であり、それは「アートマン」と名付けられいる。
「アートマン」は私たち一人一人と不可分に存在する常一主宰※の実在とされている。このアートマンが漢訳で「我」と翻訳されたのである。
※古代インドの思想では、永遠に変わらずく(常)、独立的に自存し(一)、中心的な所有主として(主)、支配能力がある(宰)と考えられる霊魂的或いは本体的実在を意味する。
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〈異なる説〉
実は、ブッダの原始仏教は、そのアートマンの実在を「縁起の道理※」によって否定し、輪廻転生の世界から私たちを解放する解脱の道を明らかにしたという説が存在する。
※「縁起の道理」とは「私が生きている」のではなく、「生かされている私」であるということをあきらかにしている道理のことを示す。
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以上