山岡鉄舟の生涯
山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)は、勝海舟、高橋泥舟(たかはしでいしゅう)と共に「幕末の三舟」の一人として知られた人物である。
旧幕臣で、明治政府に仕え、のちに明治天皇の侍従を務めた。山岡鉄舟とはどんな人物だったのだろうか。
今回は、山岡鉄舟の生涯について迫ってみたい。
〈目次〉
1.山岡鉄舟の前半生
(1)幼い頃から知られた剣の達人
(2)日本のために行動した「志士」
(3)浪士組の活動に参加
2.江戸幕府の幕引き
(1)旧江戸幕府軍が負けた瞬間
(2)江戸城開城前夜
3.命をかけた交渉劇
(1)居並ぶ敵兵の中で
(2)西郷隆盛を説き伏せた男
(3)明治天皇の教育係となる
1.山岡鉄舟の前半生
(1)幼い頃から知られた剣の達人
武芸を重んじる家に生まれた山岡鉄舟は、幼い頃から剣術の稽古を学んだ。
父「小野高福」(おのたかとみ:飛騨国の代官。江戸幕府直轄領の領主)は我が子に厳しかった。家族で飛騨国へ赴任していたとき、剣の達人「井上清虎」(いのうえきよとら)を江戸から呼び寄せ、山岡鉄舟に「北辰一刀流」(ほくしんいっとうりゅう)を指導させたほどだ。
父の死後、江戸へ戻った山岡鉄舟は井上清虎の推薦で、講武所に入門した。ここで「千葉周作」(ちばしゅうさく:江戸時代末期の剣客。北辰一刀流の開祖)らに剣を学び、槍(やり)の使い手「山岡静山」(やまおかせいざん)に槍術(そうじゅつ)を学んだ。やがて、誰もが山岡鉄舟の才能を高く評価するようになった。
そして師である山岡静山が死去すると、遺族に請われて山岡家を継ぐこととなった。また1856年(安政3年)には講武所の世話役となり、門弟への指南を任された。
(2)日本のために行動した「志士」
当時の日本は、とても不穏な空気に覆われていた。権威が衰えつつあった江戸幕府を見限り、天皇を中心とした国家をつくって欧米列強に対抗しようという「尊王攘夷」派や、江戸幕府と朝廷が一体となって強い国づくりを目指す「公武合体」派などが、血で血を洗う抗争を繰り広げていた。
ただし、日本中が明確にいくつかの陣営に分かれて戦った訳ではなく、先の見えない混沌とした時代に、誰もが手探りで行動していたに過ぎない。
このように、どの陣営に属するかに関係なく、将来を案じ自分達の力で日本を良くしようとする高い志を持つ人々は、「志士」(しし)と呼ばれていた。
(3)浪士組の活動に参加
1857年(安政4年)、山岡鉄舟は庄内藩(しょうないはん:現在の山形県鶴岡市)の志士「清河八郎」(きよかわはちろう)らとともに、尊王攘夷を推進する「虎尾の会」(こびのかい)を結成した。
そして1862年(文久2年)、清河八郎の計画で江戸幕府が「浪士組」を立ち上げると、山岡鉄舟も取締役として参加した。
これは江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が公武合体の一環として上洛(じょうらく:京都にのぼること)した際、京都警護を行うために作られた組織だった。つまり、尊王攘夷を推進した2人が、公武合体のために働き始めたのだ。
ところが、清河八郎の計画は全くの嘘で、浪士組が京都に到着すると、清河八郎は「浪士組の真の目的は尊王攘夷である」と宣言した。驚いた江戸幕府は、浪士組を江戸に呼び戻した。
このとき京都に残った浪士組の一派は、「近藤勇」(こんどういさみ)らが率いる「新選組」となった。江戸に戻った清河八郎は、江戸幕府の刺客に暗殺された。山岡鉄舟は謹慎処分だけで済んだ。
2.江戸幕府の幕引き
(1)旧江戸幕府軍が負けた瞬間
それから数年間、時代は大きく動いた。薩摩藩と長州藩の密約同盟に、諸藩が参加し、倒幕に向けて動き出した。
このまま江戸幕府が政権を担い続けるのは難しいと判断した江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」は、1867年(慶応3年)に政権を朝廷に返還する「大政奉還」を敢行した。
しかし、薩長(薩摩藩・長州藩)の勢いは止まらず、翌1868年(慶応4年)正月には薩長を中心とする明治政府軍が、旧江戸幕府軍に攻撃を開始した。
こうして「戊辰戦争」が始まったが、このとき「大坂城」にいた旧幕府軍の大将・徳川慶喜は、夜の間に城を抜け出して江戸に戻ってしまった。大将を失った旧江戸幕府軍の事実上の敗戦が決定した瞬間だった。
(2)江戸城開城前夜
旧江戸幕府の陸軍総裁であった「勝海舟」は、江戸に戻った徳川慶喜を警護するため「精鋭隊」(せいえいたい)を結成した。この精鋭隊へ山岡鉄舟は、「歩兵頭格」(ほへいがしらかく:歩兵隊の指揮官)として入隊した。この頃から、山岡鉄舟は次第に江戸幕府の幕引きにかかわっていくことになった。
1868年(慶応4年)2月、東に向けて進軍を続けてきた明治政府軍は、「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市)へ入城した。駿府城は「徳川家康」ゆかりの城で、江戸幕府の最重要拠点のひとつだった。
ここを占拠された江戸幕府にとって最大の課題は「明治政府軍とどう戦うか」ではなく、「いかに被害を抑えて負けるか」だった。
勝海舟は、大都市の江戸で激しい戦闘が起きることを防ぐため、「江戸城」を平和裏に明け渡す「無血開城」を画策した。しかし、明治政府軍がその要求をすんなり承諾する確証はなかった。そこで、この難しい交渉役を任されたのが山岡鉄舟だった。
3.命をかけた交渉劇
(1)居並ぶ敵兵の中で
駿府城に到着した山岡鉄舟は、勝海舟からの書簡を手渡し、明治政府軍の大将である西郷隆盛に面会を求めた。このとき、居並ぶ明治政府軍の兵士を前にして、山岡鉄舟は「朝敵・徳川慶喜の家来、山岡鉄舟まかり通る!」と大声を張り上げ、堂々と行進したと伝えられている。
勝海舟の書簡を受け取った西郷隆盛は、以下の5つの条件をつけた。
①江戸城を明け渡す
②城中の兵を向島へ移す
③兵器をすべて差し出す
④軍艦をすべて引き渡す
⑤徳川慶喜は岡山藩にあずける
(2)西郷隆盛を説き伏せた男
これに対し、山岡鉄舟は5番目の条件を断固拒否した。西郷隆盛は「これは天皇の命令である」と威嚇した。ところが山岡鉄舟はまったく動じることなく「もし島津公が同じ命令を受けたら、あなたも拒否するはずだ」 と薩摩藩主を例に出して反論した。
江戸の人々と主君の命を守るため、ひとりで敵陣に乗り込んで堂々と主張する姿に西郷隆盛はいたく感心した。その反論はもっともであるとして、徳川慶喜の助命を保証した。このとき、事実上の江戸城無血開城が決まったのである。
一般の歴史の教科書では、無血開城は勝海舟と西郷隆盛が行ったと書かれているが、命がけで交渉したのは山岡鉄舟だった。この行動を徳川慶喜は大変喜び、山岡鉄舟に「来国俊」(らいくにとし)の短刀を授けた。
(3)明治天皇の教育係となる
明治維新後、山岡鉄舟は静岡藩(旧駿府藩、現在の静岡県静岡市)の官僚となり、1871年(明治4年)には明治政府に仕えて静岡県権大参事(ごんだいさんじ:現在の静岡副県知事)などを歴任した。
1872年(明治5年)には、西郷隆盛からの頼みで侍従として明治天皇に仕えている。これは山岡鉄舟の人間性をよく知っていた西郷隆盛が、明治天皇の教育係に最適と判断したためだった。
1881年(明治14年)、明治政府が維新の功績を調査した際、勝海舟は無血開城の件に関してすべて自らが手掛けたという記録を提出した。一方で山岡鉄舟は、勝海舟の面目を保つため、自分が無血開城において西郷隆盛と交渉した記録を提出しなかった。
それを知った明治政府の重鎮「岩倉具視」は、「手柄は勝海舟に譲れば良いが、事実は残さなくてはならない」と説得し、山岡鉄舟に記録を提出させた。
その後、徳川慶喜のあとに徳川家を継いだ16代徳川家当主「徳川家達」(とくがわいえさと)は、今の徳川家があるのは山岡鉄舟のおかげだとして、家宝の名刀「武蔵正宗」(むさしまさむね)を与え、その功を称えた。
参照元: 「刀剣ワールド」Webサイト
以上