【短編小説/HSP/足跡の向こうに】
消えない靴音
夜中、私は静寂の中で一人、目を覚ました。
暗闇に包まれた部屋の中、耳には微かに靴音が響いているような気がした。
「母さん……？」
枕元にある目覚まし時計を見ると、針は午前2時を指していた。
誰もいるはずのない廊下から聞こえるその音に、私は目を閉じることができなかった。
玄関の扉が閉まる音が耳に甦る。
母が家を出たあの晩、彼女の靴音が家中に響いた。あの音だけが、ずっと私の中に残り続けている。
ふと、喉元が苦しくなる。
深呼吸を試みるが、まるで空気が肺に入らないようだった。
心臓が鳴るたびに耳鳴りが響き、何かが私を押し潰そうとしている。
布団を握りしめ、目をぎゅっと閉じた。
第一章：揺れる音
「どうして私は、こんなに気になるんだろう」
自分でも分からない。
些細なことが、まるで心に棘のように刺さり、抜けなくなる。
母が家を出て行ったときの玄関の音や、リビングで流れていたテレビの音、そしてその後の静寂。
その全てが、今も私の中で生々しい。
人一倍感覚が鋭いと言われるその特性が、私の心に何度も嵐を呼び起こす。普通の人が気にしないことも、私にとっては巨大な波となり押し寄せてくる。
回想：母との最後の夜
あの夜、母は少し疲れているように見えた。
「おせち、もっとちゃんと作っておけばよかったね」
そう言いながら、台所でお茶を入れる母の横顔は、少し悲しそうだった。
私は何か言おうとした。
でも、喉の奥に何かが詰まったようで言葉にならなかった。
「今年は、いい年になるといいね」
母のその一言に、私は頷くだけだった。
だが、その夜遅く、私は母がスーツケースを詰める音を聞いた。
胸がぎゅっと締め付けられる。
何かが壊れる予感がして、眠ることができなかった。
現在：ノートに刻む想い
翌朝、私はノートを開いた。
「どうして母は何も言わずに出て行ったの？」
書きながら、涙が止まらなかった。
あの日、母は何を考えていたのだろう？
HSPの私は、その理由が分からないまま、母の残像と共に毎日を過ごしている。
母が使っていた万年筆が手元に残っている。
机の上に置いてあるそれを見つめるたび、私は自分が小さな頃に戻るような気がする。
街での音、揺れる心
今日は久しぶりに外に出てみた。
街を歩いていると、人の足音や車の音が頭に響いてくる。
イヤホンで音楽を聴こうとしても、雑踏の音が耳に入るたびに心がざわつく。
「どうして私は、こんなにも弱いんだろう」
自分の胸をぎゅっと握りしめる。
周りの人たちは楽しそうに笑い、肩を並べて歩いている。それがどうしても羨ましくてたまらない。
「私は誰とも繋がっていない」
その思いが私を押し潰す。
第二章：静寂の中で見つけたもの
静かな部屋に時計の針が小さな音を刻む。
私は、机に広げた母の古いアルバムをじっと見つめていた。
ページをめくるたびに、過去が流れるように甦る。
回想：幼少期のぬくもり
まだ幼い頃、母は私の小さな手をぎゅっと握りながら、冬の夜空を見上げていた。
「雪はね、全部の音を飲み込んで、静けさだけを残してくれるんだよ」
その声は優しく、暖かく、安心感で満たされた。
母の言葉に従って、私は耳を澄ませた。
「静かだね……ずっとこんなふうに一緒にいたいな」
だがその願いは、今は虚ろに響くだけだ。
母は出て行った。
そして私は、今もその理由を知ることができないままだ。
囁き
目の前のアルバムの写真たちは、過去の残像を映し出す。
笑顔の母、隣に私。
その時の温度や、背景の匂いや音までも鮮明に蘇ってくるのが自分でも分かる。普通なら些細な記憶として埋もれてしまうはずのものが、私の心には深く刻まれている。
どれだけ思い返しても、母の声や仕草の中に、彼女が私を捨てる理由なんて見当たらない。
現在：街中での孤独
アルバムを閉じた後、私は部屋を飛び出した。
無意識のまま街を歩き、気づけば商店街の片隅にある小さなベンチに腰掛けていた。
目の前を行き交う人たちの笑い声や話し声が、まるで心の中に直接響いてくるようだった。
カフェの椅子が引かれる音や、子どもがはしゃぐ声までもが、自分を責め立てるように聞こえる。
「どうして私だけ、こんなにも繊細なんだろう…」
そう思いながら手元に視線を落とすと、風に舞う古い切符が膝の上に落ちてきた。
小さな希望の兆し
その切符は、見覚えのある文字が記されていた。
そこには母がよく口にしていた言葉、「いつか行こう」と書かれている場所の名前が記されている。
その時、私の胸のざわめきが少しだけ静まるのを感じた。
「母さん……これって、何かのサインなのかな」
小さな切符を手に、私は足を踏み出す。
無意識のうちに、その場所へ向かおうとしていた。
第三章：追憶の場所へ
小さな切符を握りしめ、私は見知らぬ街の駅に降り立った。
切符に書かれていたのは、小さな港町の名前だった。
冬の冷たい風が頬を撫で、遠くから汽笛の音が聞こえる。
母の痕跡を辿るようなこの旅路に、どこか得体の知れない期待が混じっていた。
駅前の喧騒と静寂
駅を出ると、目の前には古びた商店街が広がっていた。
人々が行き交い、どこか懐かしい風景が広がる。
しかし、その喧騒が私の耳に届くと、鼓膜が痛いほどに反響する。
周囲の音が頭の中でぐるぐると混ざり合い、私の心を締めつける。
「静かにして……お願いだから静かに……」
心の中で何度もそう呟きながら、私は周囲を見回した。
視線の先に、小さな喫茶店の看板が目に留まる。
「ひだまり」という名前が、どこか母の暖かな笑顔を思い起こさせた。
喫茶店での再会
店内に入ると、木の温もりを感じる落ち着いた空間が広がっていた。
席に着き、カフェオレを注文する。カウンター越しには、年配の女性が穏やかな笑顔で応じてくれる。
「この街にお越しになるのは初めてですか？」
女性の問いに、私はうなずいた。
彼女の声は柔らかで、心を少しほぐしてくれるようだった。
「ここ、いい場所ですね。なんだか……懐かしい感じがします」
「そうでしょう。この街はね、どこか時間が止まっているような気がするんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸に何かが引っかかる。
時間が止まる――それはまさに、私が母との記憶の中で感じていたことだった。
記憶が描き出す風景
カフェの窓から見える小さな港の風景。
遠くに見える漁船や、波打つ音。
私の心には、それがすべて母と過ごした過去の風景と重なり合う。
幼い頃、母と一緒に行った灯台。そこで聞いた潮騒の音が、今でも私の中に鮮明に残っている。
その音は、私にとって心地よさと寂しさの入り混じった感覚を与えてくれた。
「母さんも、ここに来たことがあるのかな……？」
そう呟いた私の目に、カフェの奥に置かれた一枚の絵葉書が映る。
それは母がいつか私に見せてくれた絵と同じ場所だった。
運命の封筒
席を立ち、絵葉書を手に取る。
すると、裏側に見覚えのある文字が記されていた。
「優しい時間を――愛を込めて」
母の筆跡だと一瞬で分かった。
胸が高鳴り、手が震える。絵葉書を持つ指先から温かいものが伝わるようだった。
母の足跡を追う決意
「母さん……あなたは、ここで何をしていたの？」
私は絵葉書を胸に抱えながら、店を後にする。
外に出ると、冷たい風が再び頬を撫でた。
目の前に広がる港の風景は、どこか私に何かを語りかけているようだった。
次の目的地を探そうとする私の足元に、一枚のチケットが舞い込む。
それは、母がよく話していたフェリーの切符だった。
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