2024年を生きる意味
2024年の今。私は私を誰よりも幸せにするために生きる。
そのための努力を惜しまない。
自分の心が満たされて他人にも優しさを分けれる、それが私の生きたい理想だと。
数年前、自分のなりたい姿を思い浮かべて異国に渡った。
英語と英語以外の言葉を話すようになりたい、日本以外の文化をインストールして生きやすさの可能性を広げたかった。
私以外の生きづらさを感じている人のために、共有できる何かがあるんじゃないかと希望を持っていた。
その異国の地では運命的な出会いもあれば、血の滲むような想いでさよならを告げた別れもあった。
競争的な環境に置かれて、生き残るために意地悪をしたしされたりもした。
一気にいろんなことが起こって疲れ果ててしまっていた。
たくさんのできなかったことができるようになった。
人の貪欲さを見た。皮肉な冗談が言えるようになった。感情を抜いた会話ができるようになった。友達を作らない努力を学んだ。
その一方で自分がなりたかった自分を見失った。
社会のために、社会構造ゆえに苦しんでいる人のためにと考えていた日々が遠く離れていった。
社会を考える前に私はどう生きたいの?どの社会を指しているの?そして私は誰なの?と。
今まではスキルをつける・できることを増やすことで感じていた「成長」や生きる意味が、麻薬的な考えだったことに気づいた。
ありのままの自分を受け入れず、新たに何かを付け足すことでしか自分を愛せないという病巣の中。それは何かを得ても満足しない、慢性的な欠乏意識となる。
承認欲求は誰にも備わっているトリガーだ。それを素直に明け渡すと資本主義の車輪の一部と化してしまい、己を失う。
墓場に行くまで己を知れずに終わってしまうことだってある。
私は階段から降りることに決めた。
社会的なラベリングで取り繕うアイデンティティの空虚さを知ったから。
どれだけ誰かの役に立とうとも、自分が幸せじゃないと結局は自分を永久的に痛みつけてるようなもので、誰もその痛みの代償を払ってくれないから。
快を増やして不快を減らす。これ以上不自然に自分を改造することをやめる。
自分が頑張りたい時に頑張る。自分の言葉で話す時間を増やす。
自分の中にいる、少女を幸せにする。自分にはそれができる。
痛い思いをたくさんしたけど、その甲斐があったと思う。