時代による労働者観の違いと産業が発展する構造について
近年は「労働者」という言葉を嫌う傾向がありますね。
「労働者は搾取されている」とか、そんなネガティブなイメージです。
もちろん「労働者」という言葉そのものに、そんなネガティブな意味はありません。「経営者」に対する「労働者」であるし、別の捉え方では「肉体労働者」という意味合いもあります。
昔の労働者は強かった
僕が1980年代に就職した頃は、社会党に「おたかさん(土井たか子)」がおられた頃で、まだ労働組合も力があった頃です。
高度成長期の1970年代は労働組合が強くて、経営者もすごい人がいたけれども、大量生産でマンパワーが大変に必要だった時代だったから、経営者の下で多くの労働者が働いて、高度成長の原動力となりました。
そんな頃でも、労働者の権利を激しく主張して、ある時は経営の邪魔をするような状況もありましたが、基本的には労働者は企業にとってかけがえのない存在で、それなしには利益を上げることはできなかったのです。
前述しましたが、労働者というと「肉体労働者」をイメージする人も多いかもしれません。コンピュータもオートメーションも無かった時代は肉体労働者はとても多かったはずです。
でも高度成長期の労働者は、単に経営者に対する労働者であるから、非常に知的なエリートも労働者だったわけです。
どんなに偉大な創業者でも、社員にエリートがいなければ、崇高な夢も実現できません。ものすごい経営者の下に、ものすごい労働者が沢山いたから、高度に成長したと考えられます。
優秀な経営者と優秀なコンピュータシステムがあれば企業になる時代
今は、優秀な経営者が優秀なコンピュータシステムを駆使すれば、立派に仕事が可能な時代です。
つまりそこには「労働者」という人間は存在しません。もちろん極論ですが。
しかし・・
何千人というマンパワーと、コンピュータシステムとを天秤にかけて、どっちが凄いかということを考えると、どうでしょうか?
確かにAIがもっと普及すると、ものすごいAIが業務を遂行するのかもしれませんが、AIに想像力(発想力)が無かったとしたら、何千人というマンパワーに勝てないかもしれません。
社長一人か、役員数人で、あとはAIシステムを駆使すると、だいたい10人以内で数千人規模の企業を運営することになるのですが、10人の発想だけで大丈夫でしょうか?
個人事業が増えた(?)零細ベンチャーが増えた
コンピュータで仕事ができるようになって、零細な組織は増えたと思います。少ない人数で、多くのことができるから。
でも、発想したり判断したりする人間の数が少ないと、ある意味リスキーなのです。多くの零細企業は大きくならず、社長がイメージする世界の中だけに終始してしまうから。
京セラ創業者の稲盛和夫氏は「会社はトップの器以上のものにはならない」と仰いました。
僕の解釈では「トップの器」とは「人間を抱える能力」だと思うのです。
さまざまな人間をうまく使って、最高のパフォーマンスを発揮できるのが偉大な経営者ということになるのではないでしょうか。
産業を発展させるためには
やはり、産業を発展させるためには、そこに多くの人間が関わる必要があると思います。
(効率を重視して人間を減らしていくと、産業は下手をすると衰退するでしょうね)
そして、多くの人間が、同じ方向を向いて頑張るから、大きなムーブメントになるのです。労働者はたくさん必要であるとともに、その舵取りができる器の大きな経営者やリーダーがいないと、大きな産業は育てられないのではないでしょうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?