クリエイティブの世界に身を置いたことは正解だった
以下、ダラダラと長い文章ですが、進路に迷っている人や人生につまずいている人に、何らかの参考になれば幸いです。
僕はクリエイティブの世界で決して成功していないけど、クリエイティブの世界に身を置いたことは正解だと思っています。
特に最近、そう思います。
成功していなくても正解はある
生業とか、生き方とか、そういう話の上で「成功」というと「お金を儲けて家族や友人関係に恵まれて充実した〇〇ライフ」のようなイメージになりますが、僕の場合はその点においては「ノー」なんですよね。
だけど、自分が選んだ道は「正解」だったと断言できます。
はじまり
小学生の頃、僕はレイルウエイ・ライターになりたいと思った頃がありました。そのちょっと前までは、電車の運転手になりたいと。
鉄道が好きだったのです。
鉄道っていうのは、メカニカルな部分と、駅に人が集まるという人間的な部分と、旅のロマンという風に、3つか4つぐらいの魅力が合体した趣味なのです。
だから今、言われるような「撮り鉄」とか「〇〇鉄」のように分野に分かれちゃう人もいるけど、僕はわりと鉄道ならなんでも好きみたいなところがありました。
とくに「旅」に興味がありましたね。だから厳選すると僕は小学生時代は「旅鉄」だったのかもしれませんが。
だけど小学生だからまともに「旅」に行けないわけです。
その制約のなかで「行かず旅行」みたいな作文を書いていました。
また、街が好きで自然が好きという二面性があって、市か教育委員会かなんかが開催した詩のコンクールに、街の好きなところ・嫌いなところを書いた詩を出したら入選したりしました。
流行りになびく
中学生の頃に、BCLブームというのがありまして。
たぶんその頃にはスーパーカーブームみたいなものもあったと思います。
BCLはラジオ放送を聴いて、放送局に受信報告書を送ると、ベリカードという絵葉書のようなカード(証明書)を送ってくれるので、それを集める趣味です。
海外の短波放送を聴いて、オーストラリアやアメリカの放送局に受信報告書を送ったり、国内の中波放送を聴いて送ったり。
そんなことをやっていました。
その関係で「将来は放送局に入りたい」と思ったりなんかしましたね。
鉄道のことは、だんだん忘れていきました。
ミーハーですね。
手堅きを追う
高校生のときに、進路をどうしようかと思いまして・・
親父が機械いじりが好きだった(自分はそこそこ)
アマチュア無線とかやってた
放送局に興味があった
というような背景から、理系に進んだのです。
当時は、電子工学科が非常に人気があって、そっち系の人気企業といえばソニーとか、機械系ならホンダとか、そういう時代でした。
電子工学科なら、放送局に行けるのかな?みたいなテキトーな考え方で、そっちを目指したわけです。
出来そうな方に行く
受験ですが、私学に行くと親に負担が掛かるから、まずは国公立を目指したのですね。
しかし、共通一次の点数が680点ぐらいで
大阪市大 → 無理
神戸大 → ゼッタイ無理
という窮地に立たされました。
私学は、同志社・立命・関大・大工大・近大を受けました。(贅沢な奴)
結果、立命・関大は落ちて、同志社・大工大・近大に合格。
国公立の二次は、もう受けるのをやめようかと思ったけど、先生が家の事情を心配して「国立行け!」と言ったから仕方なく(笑)京都工繊大を受けましたが・・・落ちました😢
だってモチベーションがアレでしたから。
最終的にこの親不孝者は、私学の同志社を選んだわけですが、電子工学科の難易度が高くて機械工学科で受けていたので、機械工学専攻になってしまったのですね。
将来はメーカーかな?
というのが、大学在学中のイメージでした。
うーん・・いま考えると非常に行き当たりばったりですね。
「写真」との出会い
本心なのか適性なのか、どうなのか分からないけれど、なぜか順調に大手企業に就職して、機械系で、それなりに楽しく仕事をして、そこそこ充実感もあり、トータルで16年もメーカーにいました。
1995年の阪神淡路大震災のあと、写真という趣味に出会い、ほぼ同時にホームページにも出会いました。
ホームページを作って、撮った写真をアップして、みんなに見てもらって、同じ趣味同士でつながって、交流するという・・
感性
写真活動をしているうちに、自分には他人とは違う独特の「感性」があると思うようになったのです。
会社で理詰めで仕事をして生きるのもいいけれど、少し飽きてきて、自分のなかにある感性を活かして仕事をし、生きていけたらいいなと、わりと真剣に考えたのですね。
それで、上司が二重連で反対するのを突破して、会社を辞めました。
クリエイティブ初心者
正直なところ、感性が活かせるなら何でもよかったのです。
それで、会社を辞める口実として何気に発見したのが「インテリアコーディネーター」だったのですね。
インテリアコーディネーターは、デザイン的な仕事でもあり、図面を書くこともあるため、その頃の自分の経験がある程度、活かせると思ったのです。
一年間、みっちり勉強して、資格を取得しました。
でも厳密に定義すると、インテリアコーディネーターは営業の仕事なのですね。クリエイターというのとは、若干違うイメージです。
いろいろ悩んで、真に自分のやりたい方向は「空間デザイナー」だろうと感じたのですが、具体的にそういう仕事ってイメージしにくく、マイナーでした。
かといって自分で分野を切り開くようなバイタリティは持ち合わせていなかったから、ものすごく悩み・・
たまたまイタリア人がやってる建築設計事務所に応募したら、採用されて、所長との運命的な出会いを感じたわけですが・・
結果的には1年ちょっとで辞めることに😢
世界観をゲットできた
インテリア・建築の世界を彷徨ったのは、仕事としては2年ぐらい、その後の仕事の関わりとしてプラス数年ぐらいでした。
しかし、なんやかやと言いながら若さに任せて精力的に動いたため、多くの人に出会うことができました。
いまでもその頃に出会った人の名刺が、わんさかとあって、20人ぐらいは Facebook でもつながっています。
大した仕事はしなかったけれど、デザイン手法や、デザイン的なものの見方、クリエイティブ、などに触れることができ、ある程度は自分のものになりました。
当初は「感性」と言っていましたが、デザインは感性よりも理論であり、体験でした。
どれだけ多くのクリエイティブ体験をして、そのなかで自分の理論を構築するかが重要な世界です。
「センスを磨く」とよく言われますが、簡単に言えばそういうようなことで、クリエイティブは磨いていくものなのです。
インテリア・建築業界での体験によって、クリエイティブの世界観をゲットできたのが大きな収穫だったと思います。
そしてWeb
流れ流れて さすらう旅は♪
とは、冠二郎の「旅の終りに」の歌詞ですが。
自分探しをした結果、最終的に行くところが無くなって、Web制作の道に入ったのですね。
Web制作は総合芸術でしょう。たぶん。
難易度高いですよ。
デザインもやりましたが、Webデザインは結構、難しくて、どちらかというとCMS構築やシステム開発の方に寄って行きました。
ディレクションも若干、かじってみたり。
システム開発はシステム開発で、非常に難しい世界で、かなり自分なりに奮闘したのですが、最終的には成功できませんでした。
Web制作は、13年やったので、メーカー時代と同じぐらいの長い時を過ごしました。
クリエイティブの世界に身を置いたことは正解だった
クリエイティブ業界のトータル十数年の体験は、かなり大きなものがあります。さまざまなことを考え、実践し、交流し、世界観を持つことができました。
何より、楽しかったです。(なんか過去形だな🤔)
生きるうえで「楽しい」ということは重要なポイントです。
振り返って「楽しかったな」と思える世界が、自分の世界だと思います。