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東京学芸大副学長インタビュー ~ Explay! を合言葉に教育を変える(下)

Explaygroundで旗振り役を務めるまっちゃん(松田恵示 東京学芸大学副学長)インタビュー。第2回では、まっちゃんが「遊び学」を提唱する理由や遊びの意義、今後、Explaygraundが推進、支援する研究活動の内容などについて話していただきました。

第一回記事はこちら

■失敗してもOKだから、人は真剣に遊べる

- ところで、まっちゃんが遊びの研究に意義を見いだしているのは、どういったお考えからでしょうか。

子どもの頃の思い出にさかのぼると、遊びを制限されるのがすごく嫌いでした。子どもが「遊びたい」と言うと、たいていの親は「宿題はやったの?」とか「宿題が済んだら遊んでいいよ」って言うでしょう。「遊んでばかりいちゃいけません」と𠮟られることもあって、なんだか遊びが悪いことみたいに扱われているし、子どもは自分が遊びたい理由を説明しなくてはいけない。そのことに違和感をおぼえていました。
それで、大学の教育学部に入ったとき、遊びを通じて教育の革命をみたいなことを考えている先生とたまたま出会って、それから遊びの研究に携わるようになりました。

- 今のお子さんたちには遊びが足りませんか。

足りないどころか、失われていますね。遊びって、「失敗してもOK」な世界だと思うんですよ。できるかどうかわからないからこそ面白い遊びはたくさんある。例を挙げれば、積み木がそうですよね。高く積もうとしても、途中でガラガラって崩れたりする。だけど、そんなふうに失敗しても、誰からも叱られませんよね。
日常生活では失敗が許されないとしても、非日常の遊びでは失敗してもよくて、だからこそ人は真剣に遊ぶ。もともと失敗してもOKだから、「もう一回やろう」っていうことになる。
よく誤解されますけど「真面目」と「不真面目」は、「遊び」と「そうじゃないもの」を区別する言葉じゃないんですね。遊びの中にも真面目はあるし、もちろん不真面目もあって、むしろ日常とは違う非日常の世界があることが人間に勇気やエネルギーをもたらし、そこで育まれたものが日常に立ち返ってから役に立つこともある。
ところが、今は社会全体が「一回失敗したらアウト」という感じになっていて、そうすると遊びは生じにくいんです。「気休め」や「気晴らし」はあっても、それは遊びの一側面にすぎない。

- どうしてそういう社会になってしまったのでしょうか。

一つの理由としては、情報環境の変化は大きいと思います。インターネットの普及などによって正解にすぐにたどり着けるようになって、情報を入手してから行動するのが日常になりましたよね。
学生とお昼ご飯を食べにいこうという話になったとき、私はフラフラ歩きながら、おいしそうなお店を探すのが好きで、結果的に失敗することもあっても、「まあ、いいか」と軽く受け止めるんですけど、今の学生は検索をして、評価の高いお店を選ぼうとしますよね。だから外れは少ない。でも、これは情報に行動を合わせているということで、遊びの対極にある態度だと思うんですよね。また、今はインターネット上に一回「記録」があがってしまうと、それこそ半永久的に「過去が消えない」社会になっているから、そんな時に「失敗」しちゃったら大変だ、という気持ちは半端なく強まりますよね。

- 物心ついた頃からインターネットが身近にあったデジタルネイティブ世代に偶然の出会いの面白さを教えるのは難しいですか。

すごく難しいですね。教育関係のセミナーや展示会なんかに行くとき、学生たちに「一緒に行こうよ」って声をかけても、「行きまーす」ってすぐ乗っかってくる人は本当に少なくなりました。それは、一つにはいろいろ予定が入っていて忙しいからということもあるんでしょうけど、自分にとってメリットがあるかどうかわからないものには参加したがらないみたいなんです。無駄足とか失敗を極力避けるために。

■スポーツを体育にしてしまった学校教育

- 社会全体にそういう風潮が広まると、子どもも遊びにくくなりますか。

興味はあっても遊べないという状態だと思います。遊びって「余白」の別名でもありますからね。社会に余白がなくなると、子どもは遊びづらくなる。
それと、遊びって他者が要るんですね。ままごとが典型的ですけど、周囲の人も一緒にやってくれないと集団でのままごとは成立しないんです。他者をうまく見つけられなかったり、他者の方が遊びに積極的に入ってきてくれなかったりすると、なかなか遊べない。
そういう意味では、他の研究者の方も指摘するんですけど、テレビゲームは子どものために数少ない遊びを確保している装置じゃないかと思っているんです。ゲーム画面の中には登場キャラクターという疑似的な他者がいて、子どもたちを遊びの場に救い出しているから。一般的に教育界ではテレビゲームは悪者扱いされることが多いんですが。

- 習い事のような感じでスポーツをやる子どもは多いですけど、ああいうのも遊びとは必ずしも一致しないのですか。

そうですね。本来、スポーツは遊びで、たとえば「私はテニスをします」を英語で言うと、「I play tennis」で、「play」は「遊ぶ」っていうことですよね。だけど、日本ではそういう精神を失ったままスポーツをやっているケースが多い。
それは一つには学校がスポーツにかかわってきたからという面もあります。欧米ではスポーツは地域社会に根づいているものだけど、日本では近代化の過程でスポーツを輸入する際に媒体となったのが学校教育だったから、スポーツと体育がニアリーイコールになっている。そんな国は少ないですね。

- 教育が遊びを変形させてしまったということですね。

ジョン・デューイという著名な教育学者がいっていますが、「遊びは結果ではなくプロセス」なんです。遊んでいる最中は、結果だけに関心があるわけじゃなくて、勝つか負けるかわからない状況に夢中になっているんですよね。決められた目的に向かって効率的にたどり着くのではなくて、目的そのものがどんどん変わっていくこともあるし、そういったプロセスを通じて、当初は想像もしていなかった目的が達成されてしまうこともある。
たぶん、「創造」とはそういうプロセスを指しているんじゃないかと思います。そう考えると、遊びは人生を豊かにするものだとも言えます。人生のほとんどはプロセスですから。

■真面目・不真面目の規範を超えて面白さを追求する

- お話をうかがっていて、教育にもっと遊びの要素を取り入れることの重要性が見えてきたような気がします。

先ほど、「日常」と「非日常」についてお話ししましたけど、「反日常」っていう言葉もあります。真面目なのが日常だとすると、不真面目なのは反日常、日常で大事にしていることを片っ端からやめてしまって、あまのじゃくみたいに振る舞うことですね。
でも、その二つって、何かにとらわれているという意味では同じなんです。「真面目でなければいけない」という規範はあって、反日常はそれに反発しているだけですから。
そうじゃなくて、真面目かどうかなんてそもそも問題にしないというのが非日常なんですよね。遊びを不真面目な反日常だと思っている人は多いので、この「反」と「非」の違いを説明するのはなかなか骨が折れるんですけど、真面目か不真面目かという観点を持たないのが遊びなんです。
それからもう一つつけ加えておくと、遊びで大事なのは面白いかどうかなんですが、面白いの反対語は「つまらない」なんですよね。ところが遊びの話をしていると、よく出てくるのは「楽しい」という言葉で、「遊びは楽しく」みたいなことを言う人もいる。でも「楽しい」の反対語は「苦しい」なんです。「苦楽」って言いますから。つまり、楽しいか苦しいかというのは遊びか遊びじゃないかを決定する要素ではない。たとえば、プラモデルをつくる細かい作業をしていると、苦しいけど面白い時間がありますよね。
じゃあ、面白いとはどういうことかというと、「面」が「白い」は「目の前が開けること」で、電車に乗っていてトンネルを通り抜けたとき、パッと視界が広がるようなあの感じが面白いの原義なんです。そう考えると、楽しいことを見つけるより、面白いことを見つける方が難しいということがわかりますよね。

■夢と利益を複眼的思考で両立させたい

- 今後、Explaygroundではどのような取り組みを進めていきますか。

3つの事業を考えています。1つはスタートアップ事業で、大学研究者(教員・学生)と企業、行政、あるいは子どもやシニアを含むさまざまな個人が連携、協働して新しい取り組みを始めるために、クラブ的な活動、イベント、講座、ワークショップなどをやっていきます。プリミティブな「学び=遊び」が始まる「出会い」を用意するような場面です。
2つめはアクセラレーション事業といって、企業や行政との共同研究の開始やスタートアップから生まれた企画のプロジェクト化を支援します。ここでは、ある程度の目的や成果を考えて行う、いわば「制度化された学び=遊び」に夢中になる場面です。
そして3つめはオーケストレーション事業で、社会に広がる教育課題に対して、組織的・横断的な取り組みによって具体的なソリューションを与えていくとともに、そこで生まれた成果を広く社会実装化していくことを支援します。また、アクセラレーションから生まれたプロジェクトを組み合わせ、産官学民の連携・協働を推進することで、教育革新を進めるプログラムや起業を支援します。「学び=遊び」が、翻って実生活を変革していく場面を考えています。

- どのような志を持った企業や団体に加わってほしいと考えていますか。

やっぱり自由を大事にしている人たちですね。遊びって、自由じゃないとできないので、「今」にとどまらない自由な価値観を共有できる人たちにたくさん集まっていただけたらいいなって思います。ぞっちゃんはExplaygroundを「教育のシリコンバレー」に育てていきたいとおっしゃっていて、そこは私もまったく同じ思いです。

- とはいえ、企業の場合は経済的メリットも欲しいところだと思います。
 
利益が出るかどうかということですよね。そこは、利益も出るし、自由さも失わないというセットの動きをつくれないかと考えています。アクセラレーション事業では市場や利益が見込める取り組みを進めつつ、スタートアップ事業として自由にやっている活動に対しても支援をしていただくというふうに。
たとえば、AIの画像認証システムをどこかの学校に実装し、校門や教室にカメラを設置して、子どもたちの出席管理を一括でやろうという取り組みを始めたとしますよね。企業側からすれば、このシステムが普及すれば、利益が生み出せますし、利益が得られれば、このシステムでほかにどんなことができるかを自由な発想で考えることもできる。そういうパッケージで動ける場になっていけばいいと思っています。
もちろん、夢ばかり見ていても活動は持続しませんし、この場を継続させるためには人やお金の支援が必要です。ただ、両立しなさそうな二つのことを抱えてしまうっていうのが遊びの極意でして、「これで夢が広がる」と「これで儲かる」という複眼的思考を大切にしていたいと思っています。もちろん、そもそも遊びは「ルール」に縛られている活動でもあり、マナーやエチケットが守られなければ遊べません。このあたりは、一人一人がいつも自覚している必要はあると思っています。

- 具体的に動き始めている取り組みとしてはどんなものがありますか。

スマートスピーカーを教育に生かすかとか、バーチャルリアリティ(VR)の技術を用いた教材をつくってみるといった研究がスタートしています。幼児教育関係の企業と「滑り台を超える遊具」をつくる研究も始まりました。

- まっちゃん自身がExplaygroundでやってみたいことはありますか。

一つは、「学校を丸ごと変える」という実験です。学芸大附属の小中学校や高校を巻き込んでできないかと、今、画策しています。未来の学校をつくろうという突拍子もないテーマで、時間割がなかったり、学年がなかったり、教科でもスキル的なことはすべてAIで教えて、体育や音楽の時間はみんなが集まる、なのに、めちゃくちゃ学力が高いという、そんな学校をつくってみたいですね。

- それは大丈夫なんでしょうか。

その「大丈夫なんですか」という問題に今、直面しています(笑)。
もう一つやりたいのは「身体意識の拡張」に関するもので、これはテレビゲームの研究をしながら考えていたことなんですが、たとえば「スーパーマリオブラザーズ」で遊んでいると、いつの間にか、自分が画面上のマリオのアイコンに乗り移って、マリオの動きに合わせた動きをしてしまうことってありますよね。あれは意識のレベルで身体がマリオに同期しているからで、デジタル画面の中にもう一つの自分の身体を持っているような体験だなって常々考えていたんですね。
ということは、画面上に拡張した身体の側から生身の自分にも影響を与えることもあるんじゃないかと思っていて、具体的に言うと、たとえばダンスですね。私自身、ダンスは踊れないし、教材ビデオを見ながらでも無理ですけど、画面上に、拡張した自分の身体と、ダンスの先生のアイコンがあって、拡張した自分を先生アイコンの動きに合わせろと言われたら、複雑な動きでも案外できるんじゃないかという気がしていて、画面上の身体の動きを私の生身の体全体を使って入力できるようにすれば、生身の私も同じように踊れるようになるんじゃないかと思っているんです。

- 拡張した自分と生身の自分、どちらが本物かわからない、すごい体験になりそうですね。

ええ。この原理をもし確立できたら、いろいろなことに使えるんじゃないかと思っていますね。

- 今日はたくさんのお話をありがとうございました。

ありがとうございました。

(了)

松田恵示(まつだ・けいじ)
国立大学法人東京学芸大学副学長
一般社団法人東京学芸大Explayground推進機構理事
1962年和歌山県生まれ。専門はスポーツ社会学を中心とした教育や文化を対象とする社会意識論。さまざまな遊び文化や身体文化について社会意識論の立場から研究し、学校と社会をつなぐ教育人材の育成やスポーツ教育の開発を通じて教育現場との実践的な共同作業を行っている。主な著書に『交叉する身体と遊び―あいまいさの文化社会学』(2001年、世界思想社)『おもちゃと遊びのリアル―「おもちゃ王国」の現象学』(2003年、同)など。

インタビュー/文=秋山 基 写真=山口 雄太郎


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