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【3人声劇】大正純喫茶

タイトル:大正純喫茶


キャラクター

幸(さち):看板も店名もないミステリアスな純喫茶を運営する謎の多き美女。余裕ありげでつかみどころのない性格をしているが、それは彼女の持つほの暗い過去に起因している。


愛子(あいこ):貴族大須賀(おおすが)家の令嬢。自らの考えや生き方に誇りを持つ気の強い女性。勇に淡い恋心を抱いているが、身分の違いから縮まり切らない距離にやきもきしている。


勇(いさむ):平民の出だが、第一次世界大戦の特需によって富を得た戦争成金の息子。身分や性別で他人を判断する世情や荒々しい社会運動にうんざりしており、偶然見つけた静かな喫茶店とその店主に心惹かれている・。



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愛子:(NA)

1923年、第一次世界大戦が引き起こした好況は影を潜め

軍需(ぐんじゅ)によって大きく引き上げられた株価や物価は戦争の終結後ほどなくして暴落

戦後不況に伴う就職難や治安の悪化が引き起り、

日本全体に不穏な空気が漂っていました

―――――――――――――――――――――――――――――


幸:はい、お待たせしました

ライスカレーです


勇:ありがとうございます


勇:(NA)

学生も、社会運動家も喧噪の最中(さなか)を主戦場とする昨今…

そんな荒んだ世間から切り離された、静かな純喫茶に私は足繫く通っている


幸:いつも来てくれてありがとうね


勇:この場所に心を奪われていますから


幸:そう?嬉しいわ

煙草、吸ってもいいかしら?


勇:ええ、もちろん

最近では、煙草はもっぱら紙巻…中でも口付けばかりになりつつあるとか

時代の変化…という奴なのでしょうか


幸:まだ両切りを吸う方もいらっしゃるけれど…確かに煙管(キセル)を吸う方は見なくなったわね 

ふ~…でも、私はこれがいい


勇:(NA)

カウンター越しに、煙を吹かす彼女に目を奪われる

まるで、現世(うつしよ)から幽世(かくりよ)へ誘う化生(けしょう)の類(たぐい)だと見紛(みまご)うほどの美しさがあった

  

幸:食べないの?


勇:い、いえ…!いただきます…ん…今日も最高にうまいです


幸:ふふ、ありがとう

デザートにカスタプリンはどう?最近メニューに増やしたの


勇:前に試食させていただいたものですよね?ぜひもらいたいです


幸:じゃあ、食後に持ってくるわね


勇:(NA)

女に人権などない

結婚し、家を守ることのみがこの国の女が生きる道だ

そんな世情に逆らうように、ただ一人で切り盛りされているこの純喫茶

田舎から、志だけを持ち東京へやって来た青臭い私が…洗練された味と美しい店主に魅了されるのは道理であった


幸:ふぅ~…学生さんだし、まだ若いでしょう?

同年代の方はカフェーの方がお好きでしょうに、こんなさびれた店が好きだなんて酔狂ね

※カフェー:当時は女給が性接待も行った喫茶店形態の店


勇:幸さんも十分お若いですよ

それに、この店で過ごす時間が僕は好きです

安いエロスなんかで代用できるものではないですから


幸:ふふ、勇君は純粋なのね…


勇:あの、幸さん…!


幸:何?


勇:こ、今度、良かったら僕と…デェトしていただけないですか…?


幸:デェト?私と?


勇:もし、幸さんがよろしければ…ですが


(幸は静かに煙草をふかしながら目をそらす)


幸:…ふぅ~…あなたも吸ってみる?


勇:え…でも…


幸:私が吸ったものだと嫌かしら


勇:いや!その…そんなことは…!


幸:なら、ほら


勇:ん…うっ!ごほっごほっ!!


幸:苦かった?


勇:プリンのカラメルよりは…


幸:なら…あなたは吸うべきじゃないかもね…

 ふぅ~…そういう人ほど、手放したくても手放せなくなってしまうから


勇:(NA)

はぐらかされたのだろうことは、私でもわかった

どこか遠くを見てそう呟いた言葉の一文字一文字が、脳にへばりついて取れなくなってしまったのを私は感じた

しかし、なぜだろうか…彼女の瞳はとてもさみしそうで…

その瞳に私はしばらくとらわれてしまうこととなった

―――――――――――――――――――――――――――――


(ある河原で呆ける勇のもとに、愛子が歩み寄る)


愛子:…勇さん、どうしたの?ボケっとした顔をして


勇:愛子さん…なぜこのような場所に?

良家のご令嬢が私と一緒にいては箔に傷をつけると常々…


愛子:お説教は聞きたくない、うんざりよ

呆(ほう)けてらしたのは、勇さんが通ってるカフェーの店主が原因かしら? 


勇:カフェーじゃない、純喫茶です


愛子:あら、綺麗な女性に配給をさせて一緒にお話しするのを楽しんでいると、そう思っていたのだけれど?カフェーと変わらないじゃない


勇:カフェーは喫茶とは名ばかりの、女給に性欲を満たしてもらうだけの場所だ

幸さんをそのような目で見たことはないです  …同じ人間として、彼女を尊敬し、尊重しています


愛子:そう?なら差し支えなければ教えてくださる?

こんな河原でずーっと遠くを見つめてらっしゃる理由を


勇:まあ…幸さんの事ではあります…2日前に彼女の煙草を吸いました

むせてしまって吸えたものではなかったですが…


愛子:彼女の使う煙管(キセル)を吸ったの…?


勇:あぁ…!えっと…いや、合意の上で…まあ、はい…吸いました


愛子:呆れた、やっぱりカフェーと変わりないわ

はしたないことよ


勇:…そういう意味で吸わせたのではないと思います

この煙を苦いと思うのならば吸うべきではないと…手放したいと思っても…手放せなくなってしまうから…と

私に何かを伝えようとしたんです…


愛子:ただ勇さんには煙草は早いって言ってるだけじゃないの?

   

勇:ただそれだけならば…どうして私の頭にこうもあの言葉がへばりつくのだろうと

言いようもない不安が胸を渦巻くのだろうと…そう思っていたら、この場所に…


愛子:まあ、勇さんを悩ませるだなんて…そうだ、私勇さんにお話があってきましたの


勇:話、ですか?


愛子:ダンスホールに同級生と行くことになりましたのでお相手を頼みたくて


勇:ダンスホールですか?そのようなお誘いはとても光栄ですが…愛子さんが行かれるような格式高い場所に私が行くなど…ましてや愛子さんのお相手など務まりませんよ


愛子:私と身分が違うから?

…勇さんは自らの信念に従って動かれる方だと思っていましたわ

現に、こうして私とも対等としてお話ししてくださる…なのに、私と踊ってくださらないの?


勇:私は身分で人を判断しません…世情の流れに身を任せたいとも思わない…正しきを信じて、正しきを行いたいと願っています…

しかし、今こうして話していることすら、誰かに見られてしまったら愛子さんに迷惑をかけてしまうんです

私の信念であなたの人生に傷をつけるわけにはいかない


愛子:はぁ…世の中にたえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし

またお話しましょう、ごきげんよう


(愛子が歩き去るのを、勇は見送る)


勇:…うぬぼれるな…僕が桜であろう訳があるまいに


愛子:(NA)

勇さんならばそう考えるでしょうね…

桜が無ければ、開花を待ち焦がれる必要などない…その心はどれほど平穏か

女の道は男が決める…詰め込まれた数多の教養も、極める前に取り上げられる

全ては親があてがう、未来の夫に尽くすため

私には…この国の女には、結婚の道具以上の価値などない

誰も期待などしていない…だから私は、無性に彼女が憎いと感じたのだろう

―――――――――――――――――――――――――――――


幸:(NA)

普通選挙を求める、社会運動家の声が響く

全ての人間に平等に与えられるべき権利を求めている

でも…全ての人間に平等に与えられるものなど…あるのだろうか


愛子:…営業してます?


(幸は煙草をふかしながら、入店する愛子に目を向ける)


幸:ふぅ~…ええ、開いてるわ…どうぞ、そちらへ


愛子:ここ真っ白の看板しか置いてないから、開いてるのかわからなくって

…アイスコーヒーをいただけます?


幸:わかりづらくてごめんなさい

少しお待ちくださいね…愛子さん、だったかしら


愛子:…どうして、私の名前を?

どこかで会ったことがあったかしら…?


幸:勇君からよく聞いているわ

戦争成金(せんそうなりきん)の息子の自分とも仲良くしてくれる、大須賀家のご令嬢ってね


愛子:勇さんが…私の話を…


幸:えぇ、だからすぐにわかった

ここでは淑女(しゅくじょ)のふるまいなんてしなくていいわ

誰しもが自由でいられる場所だから…はい、アイスコーヒー


愛子:ありがとうござい…


幸:あなた、勇君のこと好きなんでしょ?


愛子:ぶっ…!な、なにを言って…!


幸:隠さなくたっていいし、勇君だって薄々気づいてる


愛子:そう…ですか…


幸:気持ち、とってもわかるわよ


愛子:あなたに何がわかるって言うんですか


幸:だって私も彼が好きだから


愛子:ぶはっ…!?ちょっと待って…ごほっごほっ…!


幸:大丈夫?


愛子:大丈夫…ですけど…好きって…


幸:私にとってこの場所は…いえ、それはいい

この場所で、彼と話す時間が私は好きなの


愛子:そうだとして…どうしてそんなこと言うんですか?


幸:彼は自分の正義を信じて、努力して、努力して、努力して大学まで進学した…

平民の出で、野心におぼれず、純粋にまっすぐ私を慕い、尊敬してくれる…私を対等な人間として扱ってくれるのは彼だけよ

身分に縛られず、性別にとらわれず、信念に従い、その信念を他人に押し付けない…そんな彼が私は好き…あなたもそうなんじゃない?


愛子:だから…!仮にそうだったとして!なんでそんなことを言うのかって、そう聞いてるのよ!


幸:諦めてくれないかしら


愛子:…は?


幸:私は好きなだけでいいの

彼を私の人生に付き合わせるつもりは無い…そんな覚悟ないの…でも、あなたはどうかしら

  

愛子:どうって…


幸:彼がどんなに眩(まばゆ)い信念を持っていても、日本という国が…身分と言う壁が、あなたと彼が結ばれることを拒むの

その壁を壊して、瓦礫だらけの痛々しい道を二人で踏み抜く覚悟があなたにあるの?


愛子:あなたにそんなこと言われる筋合いはない…!彼と結ばれるなら、全てを捨てる覚悟くらい私は持ってる!


幸:どんなものも少しずつ与えられた世間知らずのお嬢様…何か全てを手にすることの辛さも…そのために捨てなければならないものもまだ知らないのなら、このまま知らないほうがいいと思うけれど?


愛子:わかったような口をきいて…!!あなたこそ…彼の前から消えてよ…!

勇さんはあなたのことで悩んでる…悔しいけど、彼が好きなの人は今はあなたなの!

そのあなたが勇さんの気持ちに応えるつもりが無いのなら、消え去ってよ!

あなたは彼を愛する勇気も、彼の前から消える勇気もない臆病者だ!!


(愛子の言葉を無視するように煙管の煙をふかす幸)


幸:ふぅ…あなたも吸ってみる?


愛子:結構よ…!私はそんなものいらない!失礼します!


(愛子は怒りながら、その場を去る)


幸:臆病者…そうね…私は臆病者かもね

…ねえ、勇君…もう、入っていいわよ?


(店の扉が開き、勇が中に入ってくる)


勇:…失礼します


幸:男性が盗み聞きだなんて、褒められたことじゃないわね


勇:偶然二人が話すのが聞こえてしまって…すいません

幸さんは…僕の気持ちはとっくにご存知だったんですか?

それにさっきの言葉も…本心ですか?


幸:だとしたら?


勇:覚悟とは…一体なんです?

幸さんが抱える何かを、僕も一緒に持つことができるなら…


幸:持たせるつもりはないわ、今日はもう店じまいよ…勇君


勇:愛子さんの言う通りです…僕は幸さんを愛しています…心の底から

 また…来ます


―――――――――――――――――――――――――――――


愛子:(NA)

その時私は、勇さんが喫茶店に入っていくのを遠目で見ていました

私の告白が聞かれていた…そう思うと恥ずかしさや気まずさで夜も眠れず…次に勇さんに会うことができたのは1週間も経った頃だったのです


―――――――――――――――――――――――――――――


愛子:ごきげんよう…やっぱりここにいたのね、ちょっと付き合ってくださる?


勇:愛子さん、どうして大学図書館に?

というか、付き合いなさいとは…


愛子:喫茶店の店主についてのことよ


勇:…幸さんの?


愛子:先週…例の喫茶店に行ったの…店名もわからなかいあの店…あなたもいたんでしょう?


勇:え、えぇ…はい…


愛子:なんであの店は店名もないのかしら…すごくわかりづらいと思わない?


勇:その、私も偶然見つけたんです

誰もが自由で縛られず、定義されない空間にしたいから、店名は無いんだと言っておりましたが…


愛子:確かに筋は通るけど、店としてそんなことあり得るのかしら

見つかってほしくない…そんな気すらしたわ


勇:(NA)

そう言われてみればそうかもしれない 

街外れにある飾りっけのない外観に、真っ白な掛看板

世俗から切り離されたような店だと思っていたが…切り離されすぎているのかもしれない


愛子:それと、私あの人の顔を見たときに、見覚えがあったの


勇:見覚えですか?


愛子:だから私、うちにあったパーティーの参加者リストを探してみたの

   そしたらこのリストにそれらしい名前があった


勇:鈴原幸(すずはらさち)…鈴原家って5年前に没落した貴族ですよね

  確か事業で大きな失敗をして…一家心中をした


愛子:ええ、小さいときに鈴原家の方々に挨拶をする機会があったのだけど、その時に会った令嬢の顔と同じだったって思い出したの


勇:同じって…子供時代と今では顔は違うのでは…?


愛子:あれだけ綺麗な顔立ちなのよ?特徴的な目鼻立ちは大きくなっても間違うわけない

  

勇:じゃあ、死んだはずの鈴原家のご令嬢がなぜかあんな場所で喫茶店をしていると?


愛子:いいえ、違うわ

うちに新聞が残ってたの…ほら、ここ…鈴原家の一家心中事件は新聞でも大きく取り上げられたけど、父、母、息子の三人の遺体が見つかる…娘の名前はないのよ


勇:なら…やはり、同姓同名の他人の空似なのでは?


愛子:私、記憶力には自信があるのよ、勇さん

だいたい、貴族の令嬢として人の顔を見間違うなんてありえない

それにね確証はもう得ているのよ、これ


勇:死亡広告…ですか?


愛子:私が言うのもなんですけど、貴族って言うのはめんどうくさい生き物でね…例えば、何か表沙汰にできないほどの問題を起こしてしまった鈴原幸という人間の存在そのものが家族によって消されていたとしたら?


勇:存在そのもの…ってまさか!?


愛子:鈴原幸…事故により死亡って書いてあるわ

もしかしたら、何かしらの理由で幸さんは家を勘当されて、そのうえで死んだことにされてしまったんじゃないかしら

だから、ひっそりと喫茶店を営んでいる

死んだはずの人間だから、表立って活動できないのよ

   

勇:仮に…仮にですよ

幸さんが元貴族のご令嬢だったとして、それが何だと言うんです…?

触れられたくない過去かもしれないですし…その…僕らの心にしまうべきではないですか…?


愛子:私の気持ちもあなたは知っているんでしょう?


勇:それは…


愛子:知りたくないの?あの人が抱えるものが何なのか…あの人の謎にとらわれ続ける限り、前には進めないわ

あなたも…私も…


勇:(NA)

正しきを信じて、正しきを行いたいと願って来た

しかし、今彼女に関する真実を強く知りたいと願うこの心は正義だろうか…でも…


愛子:行きましょう、彼女のところへ


勇:…はい


―――――――――――――――――――――――――――――


幸:いらっしゃい…今日は二人なのね


愛子:聞きたいことがあるの、鈴原幸さん


幸:あなた…どこでそれを…!?


勇:やっぱり…それがあなたの背負うものなんですか?


幸:…人の過去を勝手に調べてくるだなんて、ひどい紳士淑女がいたものね


愛子:あなたが本当に勇さんを愛しているのなら…教えて…勇さんのためにも


幸:はぁ…いいわ…教えてあげる


(幸はあきれたように笑うと、椅子に座りなおす)


幸:あなた達の調べた通り、私の名前は鈴原幸

貴族の家に生まれて何不自由なく暮らしてた

良妻賢母(りょうさいけんぼ)を目指して、色々勉強させられながらね

でも、未来の旦那より、与えられる娯楽より、私は自由が欲しかった…

だから両親に強く反発する跳ねっ返りになっていったの

16のころ…私は偶然出会った夢見る小説家に恋をした…

身分の違う、許されない恋に溺れたの…

すべてを捨ててもいいと思った…愛のためなら…あなたと同じね…愛子さん

 

愛子:…あなたは…愛のために…どうしたの…?


幸:捨てたわ全部ね…私財の一部を持ち出して…駆け落ちしたの

家にとっては恥辱(ちじょく)でしかない…だから、家族は私を死んだことにした

でもそれで良かったの…二度と帰るつもりのない家だったから

  

勇:じゃあ…この喫茶店は2人で作った物だったんですか…?


幸:そうよ…でもね、すぐに彼はいなくなった


愛子:いなくなった…って、どうして?


幸:彼は鈴原の機密事項を他の貴族へ漏らしたの…私に近づいたのも…それが理由…

私は彼に利用され、鈴原は没落…家族は皆命を絶った


愛子:そんな…


幸:わかったでしょ?私が家族を殺したのよ…

  

勇:そんなことは…!


幸:勇君…君が好きなこの喫茶店が私は大嫌い…でもね

私は一人で生きていける…この場所はそう証明するための場所なの

じゃないと…全てを捨てて、自分を死んだことにされて…家族を死に追いやってまで逃げてきた意味が無くなる…!

私なんかが…私なんかが簡単に解放されていいわけがない…!幸せになっていいはずがないのよ!


勇:幸さん…


幸:はぁ…満足かしら?ご注文が無いなら…帰っていただける?


愛子:(NA)

…彼女は覚悟を決めて自らの未来を選び、そして裏切られた

本当に全てを失い、ただ一つ残ったこの店を贖罪(しょくざい)として続けているんだ


勇:…コロッケをいただけますか?


幸:…え?


勇:ご注文が無いならとおっしゃいましたので、コロッケをいただければと


愛子:勇さん、こんな時に何を…


勇:僕には幸さんの気持ちはきっとわかってあげられません…でもここは…この店のことだけなら誰よりもわかります

派手な飾り気が無くとも、塗装も掃除も物の配置も乱雑なところはどこにもない

料理だって、知識として持っている程度で作れる物ではありません…

前にも言ったでしょ…僕はこの場所に心を奪われています

あなたが作ったこの空間が…あなたと過ごす時間が僕は大好きです

そんな素敵な空間が…・本当にただ自らを戒(いまし)めるだけの場所だったんですか?

幸さんにとって、この場所で僕と過ごす時間は苦痛でしかなかったんですか…?


幸:それは…


勇:幸さん…僕は…っ!?​


(突如として店が大きく揺れ出す)


愛子:…何?…地震?


幸:いけない…逃げて!!


――――――――――――――――――――――――――――


愛子:(NA)

1923年9月1日、東京、千葉、神奈川を中心に巨大な地震が発生しました

津波や建物の倒壊、火災による死者・行方不明者約数は10万人を超え、

後に関東大震災と呼ばれるこの地震は、我が国の自然災害史上、最悪の被害を及ぼしたのです


幸:(NA)

運よく生き延びた者達は、政治機関も麻痺する混沌とした状況の中、仮設されたバラックに逃げ込みました

しかし、急ごしらえではバラックの数が住民に対して全く足りず、治安や衛生面など様々な問題が浮き彫りとなりました


――――――――――――――――――――――――――――


(大須賀邸入口、愛子が門をたたく)


幸:どなたか…いらっしゃらないかしら…


(門が開き、愛子が出てくる)


愛子:…あなたっ…!?…生きてたのね


幸:…えぇ、なんとかね


愛子:…どうしてここに?


幸:…あなたにしか頼れなくて…ごめんなさい


愛子:いいえ、謝らなくていい…生きてて良かった…本当に…


幸:…愛子さん…ありがとう…


愛子:(NA)

大須賀家は西洋から取り入れられて日の浅い、レンガ造りの建物を嫌っていました

事実として、耐震性に乏しいレンガ造りの建物の多くが倒壊する中、伝統工法を重んじた大須賀家邸宅の震災被害は軽微で済んだのです

  

幸:あなたなら…知ってるんじゃないかと思って…その…彼がどこにいるのか…


愛子:…それを知ってどうするの?


幸:…会いたいの


愛子:…本当に身勝手ね…あなたも、私も…ついてきて


幸:…わかった


(屋敷内に招き入れる愛子、幸は何かを悟りその後に続く)


愛子:私たちが散り散りになった後、必死に探したのよ

勇さんと…あなたを…


幸:私も…?


愛子:彼にはきっとあなたが必要だから…気づいてる?

彼、あなたと話す時だけ、自分のことを僕って呼ぶのよ?

私はずっとあなたに勝てなかった…一緒の土俵にすら上がれてなかった…それにあなたの話を聞いて気づいたの…


幸:私の話…?


愛子:私は大須賀の令嬢…自分には利用価値があること

私が彼を愛することで起きること…家を離れることで起きること…

自由の代償に払う対価のことを…ね

私には覚悟なんてなかった…今のあなたが持ってるような本物の覚悟がね


幸:…それは


愛子:…いいの、何も言わないで

何があったかは、彼に聞いてちょうだい、奥の部屋にいるから…


幸:ごめんなさい…愛子さん…ありがとう


(幸は勧められるまま奥へと進んでいく)


愛子::…さよなら、私の初恋


(幸は、ドアに恐る恐るノックをする)


幸:勇君…?私…幸よ…その、ここにいるって聞いて…入ってもいいかしら…


(部屋の奥から返事はない)


幸:…勇君?…入るわね?


(幸が扉を開くと、そこには体中傷だらけになった勇がベッドに横たわっていた)


勇:…幸…さん…!?


幸:勇君!?どうしたの…!こんなに怪我をして…!?


勇:…すいま…せん…こっちの耳…が聞こえなくて…・お返…事…できなかったみたい…で…


幸:私なんてどうでもいい…!…何があったの…!


勇:…2人を逃がしたあと、僕も…バラックに逃げ込めましたが…

そこで色々な…陰(かげ)りを見ました…

政治に…経済に…犯罪を侵す人々に…みんな疑心暗鬼になるばかり…

朝鮮人も殺され始めて…無力な正義がいかに虚しく…無意味か…それでもできることをしようと…頑張ったのですが…


幸:綺麗な手ね…


勇:…え?


幸:見ればわかる…誰かを守ったんでしょう?これも…ここも…殴られてついた傷だわ

なのに…あなたの手はとっても綺麗…一発くらいやり返したって、バチは当たらないでしょうに


勇:…そうで…しょうか…愛子さんに見つけてもらって…助かったんです…が…

お二人には…みっともない…ところを…お見せして…


幸:いいえ…私はこの手の方が好きよ…勇君

握っても…いいかしら…


勇:…はい…もちろんです…


幸:勇君…あの時、何を言おうとしたの?


勇:…チャンスが欲しかったんです

あなたを幸せにするチャンスを…でも…今はこのざまで…んっ…!?


(幸が勇にキスをする)


幸:死を間近に感じて…あなたを失うのが心の底から恐ろしくなった…まだ遅くないのなら…あなたのそばにいさせて…


勇:はは…遅いだなんて、滅相もない


愛子:(NA)

この後、長期にわたり日本は厳しい状況を走り抜けていきます

不況の連続、軍部の肥大化、そして泥沼の戦争へと…そのさなか、愛する2人を襲う者がなんなのか…それは誰にもわかりません…でも


愛子:それで?勇さんが元気になったらどうするの?

喫茶店も崩れたりしてるでしょうし


幸:…実は家族が亡くなった時に、私財の一部を引き取ったの

事情を知ってた父の友人が気を遣ってくれてね

使うのも気が引けたから、あの喫茶店の床下に隠してある…多分無事だと思うから、落ち着いたらもう一度喫茶店を開こうと思うわ


愛子:たくましいわね~


幸:あの場所はもう無くせない…だって、あの喫茶店は勇君が愛してくれた場所ですから


  

   

  

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