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「脱」か「反」か、それが問題だ。

主義主張のスタンスを表す表現として「脱〇〇」とか「反〇〇」とかよくありますよね。「脱成長」とか「反労働」とか。

今回はこの「脱」と「反」のニュアンスについて考えてみました。目が行きやすい個別具体的な「〇〇」の部分ではなく、接頭辞的に載せられてる「脱」と「反」の方に注目したのです。

(英語で言うとそれぞれ「脱」が"de-"で、「反」が"anti-"に相当するかなあと思うのですが、英語での語義感覚は実際には違うかもしれないので本稿では日本語の「脱」と「反」のイメージで考えていきます)

実際、この「脱」と「反」の両者は似て非なるものであるはずと思うんですよね。そして、この違いがあまり整理されてないがために議論が噛み合ってないケースが多々あるのではないかと。

まず江草的な「脱」と「反」の捉え方を説明しましょう。

たとえば、「脱成長」が「(経済)成長なんてしない方がいい」という意味で捉えられることがあるように思うのですが、これが個人的には違和感があるんですよね。

だって、それって「脱成長」じゃなくって「反成長」なんじゃないのと。

積極的に成長を拒絶してるなら、それは成長に反対してるわけなので、「反成長」と呼ぶ方が適切に感じるのです。

では、この場合「脱成長」とはどういう意味で捉えてるかというと「成長するしないにこだわらない」というニュアンスです。確かに「脱成長」も「成長しなきゃいけない」という現行主流の考えに対して「反成長」と同じく批判的ではあるんですけれど、「反成長」みたいに「成長しちゃダメだ」とも思っていないという。「成長するしないはどっちにしても重要ではない」というのが「脱成長」ですね。

これは例として「成長」を挿入してるだけなので、対象とするものは「成長」以外の「労働」でもなんでも構いません。「労働」の場合だと、「反労働」が「労働なんてしちゃダメだ」というニュアンスであるのに対して、「脱労働」は「労働しなきゃいけないとか、労働しちゃダメだとかないし、労働してるかしてないかを、いちいちさも重要であるかのように気にするのやめようよ」という感じになります。

無理矢理、相関係数のイメージで説明してみると、「順〇〇」(〇〇支持派)が〇〇に対して相関係数"+1"で、「反〇〇」が"-1"、「脱〇〇」は"0"って感じです。

「順〇〇」は〇〇が大きくなればなるほど良いと思っている。対して「反〇〇」は〇〇が減れば減るほど良いと思ってる。一方で「脱〇〇」は〇〇が増えようが減ろうが、ものごとが良いかどうかは○○に左右されない(相関しない)という感じなんですね。

「順〇〇」と「反〇〇」は一見すると真逆の立場に見えますが、その実「〇〇」について非常なこだわりを持ってるという点では共通してるんですね。しかし、「脱〇〇」はそのこだわりを持たない立場という点で「順」とも「反」とも異質なんです。

すなわち「反対する」のが「反」で、「反こだわり」が「脱」です。

「脱」は「反」ほどではないけど結局は「順」に対して反対している、ただの「マイルドな反対」という立場に思われがちかもしれません。しかし、「脱」は本当は「〇〇に賛成か反対か」という対立軸から逸"脱"しようとしてる点で特異なわけです。

こんな風に意外と似て非なる両者なので、この「脱」と「反」の整理が確定してないと、話が噛み合わない場面が出てくるんですね。

ありがちなのは、たとえば先の「脱成長」の例で言うと、あくまで「脱」の主張である論者が「積極的に成長を巻き戻そうとする立場」かのように批判されることです。
「積極的に成長に反対する」のは「反成長」ですから、相手の立場(本当は「脱成長」)を読み違えた、的を射てない批判であって、議論が噛み合ってないわけです。

おそらく「脱」という語句のなんとなくのネガティブなイメージから「脱成長」派は「成長してはいけない」と思ってるのだろうと誤解されやすいのですね。ここでの「脱成長」の立場を正確に示すならばあくまで「成長しなきゃいけないと、こだわってはいけない」であって「成長してはならない」ではないのです。

「脱成長」の立場であれば、狙ってなかったけどたまたま結果として成長してしまったみたいなケースは容認します。ところが「成長してはならない」を掲げる「反成長」だと、それがもともと狙っていたかどうかにかかわらず結果として成長してしまったことに対してさえも否認するという違いがあります。

これがややこしいのは、その批判者だけでなく、当の「脱」や「反」を名乗ってる(あるいは名乗っていなくてもそれに準ずる主張をしてる)者たち自身も、自身の立場を「脱」と「反」のどっちつかずに混在させてしまってることが少なくない点にあります。

「順〇〇」を批判する時に、自分が「脱〇〇」なのか「反〇〇」なのかが整理されておらず、時によって一貫性なく揺れ動いてるんですね。

理論の大筋では「脱〇〇」 っぽいこと(「○○を絶対善としたり、それを為したりすることにこだわってはいけない」)を言っていたはずなのに、たまに「なんということか。○○してる者を見かけたぞ。〇〇してはいけないのに!」みたいなことも言い出す。これを傍から見ると、この人の立場が「脱」なのか「反」なのか分からなくて混乱するわけです。

さすがにもうちょっと具体的な説明の方がいいですかね。

そうですね、これは、たとえば、いわゆる「嫌儲」の議論でしばしば見られます。

ここに、あこぎな金儲け主義を批判する文脈を提示している論者がいたとします。まずは、それを素直に受け取って「金儲けを主目的にしてること」すなわち「金儲けにこだわること」に反対している「脱儲け主義」の立場かと聞き手は受け取ります。
しかし、別の場面で、金儲けを主目的にしていた証拠がないにもかかわらずたまたま結果的に金が稼げてしまった可能性がある者に対しても「この者は金を稼いだ」という一点でその論者が非難を加えているシーンが確認されました。
それなら、この論者は「脱儲け主義」かと思わせて「反儲け主義」だったのか。でもやっぱりメインの論調は「脱」っぽいことを言っている文脈に聞こえる。
そんな時、受け手としても、論者がいったい「脱」か「反」かどっちの立場がよく分からなくなって困るわけです。先ほどから見てる通り両者は似て非なるものなので。

「脱」なのか「反」なのか。この態度を論者自身もはっきりさせないならば、周りから「脱」か「反」かを取り違えた解釈をされても仕方がない所がでてきます。本人は「脱」を(無意識的に)自認しているのに「反」かのように受け取られて、何だか心外だとなる。しかし、周りから見ると実際に「反」に見えるシーンがあるなら、そう扱う人が出てきうる。こうなると当然、論者と批判者の議論が噛み合わず不毛化して、結局、皆の損失です。

だから、何かしらの「順○○」に批判を加える時には、それが「脱」の意図なのか「反」の意図なのかは、出来る限り意識的に整理し明示する方が全員にとっていいのではないか。このように思うんですね。


……と、書きながら、かく言う江草自身ちゃんと立場ハッキリさせてるんかいなと不安になってきました。

一応、自分自身の自認としては、だいたいのケースで「脱」派なタイプだと思ってるのですが、ちゃんとそのように伝わってるでしょうかね……。たとえば、「成長」に関しても「脱成長」だし、「労働」に関しても「脱労働」だし、「反知性主義」に対しても「脱知性主義」だし、「嫌儲」についても「脱儲け主義」のつもりです。

こう言うと、「反」よりも「脱」の方が良いのだと言ってるように聞こえるかもしれませんが、そういうわけでもありません。

「脱」のポジションを取るには、「順」と「反」の両極のポジションの人がいて初めて成り立ちます(特に「順」は必須です)。そういう価値判断の軸を積極的に築いていけるのは「順」と「反」の人が居てこそなんですね。そうした何かしらの軸のある立場を明示的に主張できる方々は、なんて言いますか、月並みな表現ですが、やっぱりカッコいいんですよ。

「脱」は「反こだわり」と説明したように、結局「何を言いたいのか」「どうしろと言ってるのか」がほんわかして分かりにくいです。というより、分かりにくいどころか「○○だ」とか「○○しろ」という断定を下さないのが「脱」なので、「どうしろと言ってるのか」の回答としては「実際にどうしろとも言ってない」みたいな身も蓋もない事実があります。こんな態度、つかみ所が無くて、「カッコいい……!」とはならないでしょう。

かろうじて「脱」派が言ってることがあるとすれば「こだわるな」という点。何かしら「こだわり強そうだな」という場面を見かけたら、それを「こだわりすぎじゃない?」と解除しに行く。そんな感じです。

対して、「順」や「反」は「いやいや、これは徹底的にこだわるべき大事な事項だ」と「脱」に共同戦線を張ることができます。言い換えれば「こだわらないようにすることにこだわってんじゃねえ」と「脱」に反論しているわけです。

そうすると、面白いことに、この場では、もともとの「脱」派が「順こだわらない(反こだわる)」派であって、もともとの「順」と「反」が「反こだわらない(順こだわる)」派になるという、二次的な「順」「反」対立構造が生まれてます。「そもそも○○にこだわるべきかどうか」を巡る対立です。

二次的と言えど、「順」「反」が生じたならここに新たに二次的な「脱」を置くことも可能なわけで、結果「こだわるとかこだわらないとかそういうたいして大事じゃないことにこだわってんじゃねえ」という二次的「脱」が爆誕します。

うん。もうめちゃくちゃですね。わけが分からなくなってきました。

だから、こういうわけの分からないことをウニャウニャ言い続ける「脱」タイプよりも、単純明快に「○○だ!」「いや、○○はダメだ!」などとはっきり言ってくれてる「順」「反」タイプの人の方がやっぱりカッコいいし建設的な気はしちゃいますよね。

そんなわけで、それぞれに良い面、悪い面、固有の役割があるのだから、「脱」と「反」とどちらが良いかとかにこだわらない方がいいですね。(いかにも「脱」な結論)

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江草 令
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