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高待遇の職が余るなら受験戦争は不要になるか問題

ネット上で、現場作業肉体労働系の仕事の待遇が良くなっているという話題を見かけまして。

こうして人不足の現場のブルーカラー職人系の仕事の待遇が改善している一方で、人余りの大卒文系の待遇の見通しは暗いという見立てです。

怠惰な江草はちゃんとデータを当たったわけではないですが(悪い子ですね)、今回の話題の主要メンバーとなっているYo𝕏ano氏(a.k.a ショーンKY氏)は毎度骨太の論考を書かれる気鋭のネット論客なので、信憑性はそこそこ高いと思っています。

デイヴィッド・グッドハートが『頭 手 心』で指摘した大卒「知識系人材」の優勢な社会が、ついに高卒「職人系人材」の優勢な社会へ転換しつつあるかもしれないという点で、注目すべき現象でしょう。(念のため補足しておくと職人系の人材に知識が不要というわけではないです。便宜上のカテゴリー分類ということでお許しください)


ただ、こうなると、学歴を巡って激しい受験戦争が繰り広げられてる現状はどういうことになるのかが気になってきます。

大学で高等教育を受けることで教養を深めたり人格の涵養ができたりするという期待も確かに一定程度存在するでしょうけれど、一般的な認識としては、大学入学の意義は「安定した良い待遇の良い仕事に就くために大学ぐらいは入っておきなさい」という世知辛い扱いでしょう。

しかし、大卒学歴よりも高卒の方が良い待遇となったら「この辛く苦しい受験戦争は一体何のために戦ってるんだ?」ということになりかねません。

しかも、待ったなしに少子化が進むことが確定しているわけですから、そもそもライバルとなる競争相手も減るはずです。

こうなると同世代で争い合う受験戦争は終息に向かうかもしれない。少なくともその過酷さは緩和はされるのではないか。そんな仮説も出てきますよね。


さて、ここでふと江草が思い出したのが『賭博黙示録 カイジ』の一幕です。

福本伸行『賭博黙示録 カイジ』第2巻

名作として名高いかの限定ジャンケン編の一幕ですが、ご存知ない方やお忘れの方もいると思うので、簡単に説明しておきます。

主人公のカイジたちは、ギャンブル船「エスポワール」で、ジャンケンを通してプレイヤー同士で「星」を奪い合うデスゲーム的ギャンブルをさせられています。クリア条件は「星」3つです。

しかし、ある時、場に「星」が余り始めたことを知って「もう生き残りは確定してるのだから無理に星を焦って獲りに行ったり買いに行ったりしないでもいいんじゃないか」とカイジたちが議論をしているという場面です。

このシーン、待遇が良いが労働市場に出てきつつあることで「もう無理に大卒資格を巡って大金を積んだり詰め込み教育をしたりする過酷な受験戦争に身を投じる必要はないんじゃないか」という本稿の話題と重なるわけです。

皆さんはどう思われるでしょうか。


同じように「どう思います?」と振られた主人公のカイジは、その現実を認めつつも、ある疑念を抱きます。

福本伸行『賭博黙示録 カイジ』第2巻

「しかし……その事実……この船が許すだろうか……?」

いやはや、背筋が凍るような怖い含みのモノローグですよね。

まあ完全にフラグが立っており誰の目にもこの後どうなるかは明らかだと思うので、あっさりネタバレをしてしまうと、当然この「星余り」の状況を船側管理者側は許さず、この直後、場にガッツリ干渉して、プレイヤー間の地獄のような競争を継続させることになります。

つまり、この漫画で起きたこのような干渉が、果たして現実でも起きないかどうかというのが江草が気にしてるところなんですよね。

本当に今後「高卒人材の待遇が大卒人材の待遇を上回ることを社会が認めるかどうか」はすごく大きな分水嶺になるかと思います。


なにせ、ご承知の通り、世の中の大学進学率は右肩上がりです。

図録▽高校・大学・大学院進学率の推移 -社会実情データ図解

これはつまり、多くの人が大卒の学歴を持つ世の中になっているということです。この大卒学歴の人たちが多数派である世の中にあって、本当にスルりと「高卒が大卒より高待遇」なんて事態を認めるかどうかは結構疑問なんですよね。

先ほども触れたように受験戦争は過熱の一途を辿っています。そして、人には「自分が苦労して得たものには価値があると思いたがる」という「努力の正当化」バイアスの存在が知られています。

「努力の正当化」をメンバーの団結を強めるために利用する集団もある。仲間に加わるときに行われる「加入儀礼」がそれに当たる。  
 若者の遊び仲間のグループやドイツ語圏にある大学の学友会は、「不快感をもよおすような儀式や暴力的な儀式を通過した者」だけをメンバーとして迎え入れる。「加入試験」が厳しければ厳しいほど、そのあとに感じる誇りも大きいことは、研究によって証明されている。
 同様のことはMBAの学校でも起きる。MBA取得のために、学生たちは休みなしに、ときには疲労困憊するまで学ばなくてはならない。
 その結果、こなした課題が有益なものであろうとばかげていようと、MBAを取得した学生は、それが自分のキャリアに不可欠な資格だとみなすようになる。その取得のために多大な労力をつぎ込んだからだ。

ロルフ・ドベリ『Think Smart』

自分が苦労して受験戦争に挑んでやっとの想いで得た大卒資格が報われないと、大きな認知的不協和が生じます。苦労の帰結として生じた高いプライドを投げ捨てて、スッと「それでいい」と認められる人は、そうは多くはないのではないでしょうか。

あるいは、別に自分自身がそうでなくても、愛する我が子たちのためにと大変な労力とお金をかけて塾や進学校に通わせた親御さんたちの気持ちからしても「あの苦労や支出が報われてほしい」と思うのは自然な流れかと思います。

(さらに言えば、そうした心理的側面だけでなく、奨学金や住宅ローンなどで多くの人が大卒身分の高待遇を当てにしてる向きもあります)


すると、何が起こりうるかというと、大卒資格の待遇を良くするためのキャンペーンでしょう。「高度な人材である大卒者が高卒者よりも低い待遇であるのはおかしい、政府は何とかしろ」と、こうなるわけです。

ご存知の通り、官僚や政治家も既にまず大卒だらけの大卒前提業界です。自身たちも大卒であればこそ、この主張に違和感を持つのは難しいでしょう。

しかも、現在の理系現場労働者優勢なトレンドにおいて、不利になりつつある文系大卒こそ、むしろそうした官僚や政治家あるいは司法などの「管理者側」に立ちがちな人たちです。このトレンドに待ったをかけるような何かしらの介入をする懸念は十分にあるのではないでしょうか。

ありがちなのは「質の担保のためだ」とか「公正な競争のためだ」とか言って、いろんな認証制度や管理報告制度を築くことですね。それぞれそれっぽい大義名分が掲げられていて即座には反論しにくくなっていますし、そもそもそうした反論を抑える議論スキルの優位性があるのが特に文系大卒人材でもあります。

だから、膨大な文書や議事や法制度をもとに「というわけでこの制度が必要なので実施しますね」と言われると、現場労働で忙しい人たちからすると、反抗する余裕や力や権限がないままに否応なしに認めさせられてしまいがちです。(厚労省の政策のなすがままの一般勤務医たちは皆痛感してるところですね)

そうして、結局は「管理者」側が高待遇で優位な立場として残ったならば、その地位を求めて引き続き受験戦争が続く可能性はあるでしょう。

言わば「官僚主義メソッド」なのですけれど、これが既に存分に社会に蔓延していて、あちらこちらで謎の書類仕事の山ができ、何の意義も感じられない「ブルシット・ジョブ」に苦悩する人たちが出てきているのは皆様もご承知の通りでしょう。

こうした現状を見るにつけても、「」が余るから大丈夫だ、などと楽観視できるかどうかはちょっと分からないところがあるなと江草は思っているのです。


というわけで、ずっと社会が頭脳労働者を重視しすぎたための現場労働者不足が生じ、その反動として高卒現場労働者の待遇改善が起きているという現象は確かにあったとしても、その一方で今なお社会は慣性の法則的に次々と大学に人材を送り込んでいるわけです。

だから、既に大卒重視に舵を切りきってる社会全体が急に方針転換できるかどうかは怪しい可能性があります。『カイジ』よろしく、現場労働者プレーヤー社会のコンフリクトが今後起きることは必至でしょう。

もちろん、現実世界に直接リンクしている人手不足という現象は重要なキーファクターではあります。現実に人がいないならどう足掻いてもいないのですから。しかし同時に「大卒(高学歴人材)こそ多くの報酬に値する」という形而上的なメリトクラシー思想も社会に多大な影響力を持っている極めて強力なキーファクターであるわけです。

つまり、どちらも強大なファクターであるだけに、今後世の中がどう転ぶか分からないところがあります。

「争わなくても全員助かる」のか、「争わないなんてそんなことは認めない」のか。

社会の行末を左右する関ヶ原的な大決戦が始まってるのかもしれません。



……まあ、余談になりますけど、江草個人的には「こうなるから受験戦争の過熱化は止めないといけなかったよね」というのが正直な思いです。

「努力の正当化」で示されてるように、やっぱりギリギリまで追い詰めるように人を競争させてしまうと、その勝者も獲得物に対して強力な執着を抱いてしまうんですよね。

そうすると、現実にそうした「競争の獲得物」が無用の物になった時にも、本人はもちろん社会にとっても、それを容易にいじって修正することができないアンタッチャブルな強固なアイデンティティと化してしまって、社会の状況に応じて変更する柔軟性を欠いてしまうことになります。

しかも、外から「無用なんじゃないか」「待遇が良すぎるんじゃないか」と疑惑が立ち上がるやいなや、「元勝者」も自身の「獲得物」、ひいては「自分自身」はまだまだ無用なわけはなく当然に高待遇に値するのだ、という「価値の証明合戦」に熱を入れるようになるばかりで、新たな不毛な競争の誘因にもなりがちです。

「じゃあ具体的にどうすればよかったのか」とか、「既にもうこうなっちゃってる以上、手遅れじゃないか」とか、疑問は尽きないところかとは思いますけれど、ともかくも受験戦争過熱の一つの負の側面として、こうした「努力の正当化」の問題は意識されるべきなんじゃないかなあと感じます。



参考書籍


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江草 令
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